読み書きができる、ということ
現代文のテストで、気持ちを問われる出題に困惑したことはありませんか。
そう、よくある「書いてあることの気持ちなんか書いたやつにしかわからないだろう?」という誤解です。
誤解と書きました。
そもそも出題の意図を、勘違いしているのです。これは、書いた人の気持ちを察しろという意味ではありません。指定された部分で「書いてあることだけを読み取る、書いてないことを勝手に推測しない」訓練なのです。
その訓練が何故必要なのかは、後述します。まず一問、解いてみましょう。
つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世の全ての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合わせ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合わせ者だと言った人たちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。(太宰治「人間失格」)
本文中の「自分」の気持ちとして、適切なものをひとつ選びなさい。
①自分はとても幸福だが、どんなに声をあげて訴えてもそれは世の全ての人たちにはわからない。
②自分は地獄の中にいても幸福だが、世の中の全ての人はもっと幸福である。
③自分は苦しみ幸福であるように思えず、むしろ自分を幸福だと言う人の方が幸福に見える。
④世の中の人たちは苦しんでいて幸福ではなく、自分の方が比較にならないくらい幸福である。
意図はお知らせしました。この中でもっともふさわしいものを選びます。
解き方、わかりますか。
こういった問題全てに共通する思考のプロセスを説明します。これはあくまでテストですから、出題者側で正解はひとつに設定されています。文学としての太宰治の書いた「人間失格」の本の気持ちに寄り添うか、というよりも、いかに間違ったものを選ばないか、が正解を導くコツです。
選択肢は、消去法でまず減らすのが鉄則です。「書いてあることだけを読み取る」訓練ですから、文章には「書かれていないこと」が入っている選択肢を消していきます。
まずどれが真っ先に消えるでしょうか。
④世の中の人たちは苦しんでいて幸福ではなく、自分の方が比較にならないくらい幸福である。
これです。
この文章は、自分と、自分以外の人(世の中の全ての人たち)の幸福について書かれているものですが、明らかに「世の中の全ての人たちは幸福ではない」とは書かれていません。なので×。
さて、次はどれを消しましょうか。
①自分はとても幸福だが、どんなに声をあげて訴えてもそれは世の全ての人たちにはわからない。
私ならこれです。
自分の幸福について、世の中の全ての人たちが「わかっているか」(理解する、にあたる記述)は文章の中にありません。ないものはしょせん推測でしかないので、選択はできません。×。
こうして2つになりました。だいたい、こうやって残りは2つのどちらかになるように出題者側は設定してあります。
②自分は地獄の中にいても幸福だが、世の中の全ての人はもっと幸福である。
と、
③自分は苦しみ幸福であるように思えず、むしろ自分を幸福だと言う人の方が幸福に見える。
です。さてどちらが適切でしょうか。
適切とは「ふさわしい」ということです。どちらの選択肢も、自分と世の中の全ての人の幸福について比べていて、書いてあることが文章と似通っているように見えますが、より文章に近いものしか選べません。つまり近くない方を消します。選択肢を分解してみましょう。
②は
自分→幸福である
他人→もっと幸福である
③は
自分→幸福だと思えない
他人→幸福そうに見える
です。どちらも他人(世の中の全ての人たち)は幸福。
—-自分を仕合わせ者だと言った人たちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
と、最後に書いてあるので、言った人たち(自分ではない方)はどうやら安楽(幸福と言い換えて差し支えないでしょう)です。
では自分の方。この文章の中だけで、自分は自分のことを幸福だと思っているかどうか、になります。
—-自分は小さい時から、実にしばしば、仕合わせ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、—-
こう書いてあります。さて、自分のことを仕合わせ(幸福)だと思っているのは誰でしょうか。
「人」ですね。自分ではありません。どうやらこの自分という主人公は、他人から見れば充分幸せそうなのですが、自分自身では地獄だと言っています。だから、自分のことを幸福だとは断言していません。なので②は×。
よって正解は③。
こういった出題で、求められている思考のプロセスはこんな感じです。書いてないことを選ばないようにすれば、おのずと書いてあることだけが入っている選択肢が残ります。
そこで沸く疑問は、何故この訓練が、現代文として必要とされているのでしょうか。それは
書いてあることだけが読み取られ、書いてないことは読まないし読まれない
ということを理解するためです。
たとえば、こんな光景は、日常茶飯事ではありませんか。
SNSなどの、ある一定の分量で書かれた誰かの話を、曲解して受け止める人。
または、言葉足らずで真意とは全く違う意味に受け止められて、怒っている人。
それをやらないための訓練です。
書いてあるものの本当の意図は、書いた本人にしか分かりませんが、また同時に、外に出されたものつまり、書いたものからは、書いてあることしか読み取れません。
なので、読み取る側は書いてないことを頭の中で勝手に付け足さないように読まなければ、書いた本人とは近付かないでしょう。
また、書く側は意図をなるべく思ったように伝えたいときは、全く違った意味にとられないように言葉に気をつけなければいけません。
もちろん、実際に顔を突き合わせて話をするのであれば、表情や口調の補足情報も得られますし、随時質問もできます。
しかし、書いてあるものを遠隔で読むだけになると、それ以上の手助けはありません。誤解や勘違いをしないためにも、この訓練は成人するまでに必要とされているスキルです。
ただでさえ、日本語は短い文章だと主語を省略することが多く、誰が何をしたか、したいか、どう思ったかが、分かりづらい言語です。
私は、誤解のないように読むこと、書くことをより意識すると、現代の小さな諍いはとても減るのではないか、と思います。
それには本を読むことなど、過去の作品からふさわしい日本語を学んだり、自分の意見を普段から考え、まっすぐ書くことなど、得ておきたいテクニックはある程度必要です。
現在、日本の識字率は100%ということになっています。これは、読み書きができること、ということです。
さて、私たちは、本当の意味での読み書きは、できているのでしょうか。
日本の母語は日本語です。日本でしか使われませんが、この国の言葉を、もう少し使えるようになると、面白い、と私は思っています。
2020.06.23.