好き好き大好き超愛してる
愛は祈りだ。
表題は作家・舞城王太郎氏の傑作のタイトルです。むせかえるほど甘くてメロウでかなしい本。
冒頭の言葉、愛は…の意味は、私にはまだ少ししかわからない。これは恋愛小説なのだけれど、私にとっての恋愛はとっくに家族愛になってしまった。
では愛は無いのか。
そうでもないと思うんだよね。愛してる、にはもちろん、ふしだらさとか、情慾とか、嫉妬とか、そういう不埒で熱いものもあるけれど、それとは違う、それ以外の意味の方が多い気がしていて、私の中にはまだたくさんある。
向ける対象は少ないけれど。
配偶者と、子供たちと、友人と、あとは尊敬してる人くらい。少ないことにくすくす笑う人もいたけれど、いっぱいいて常にそこに居ない人の話をして円満を保つ欺瞞よりいいかなって。
昔、アホみたいにツイートしていた頃にもらって嬉しかった言葉は
「こんなにまっすぐ一人の選手を好きだって言っていいんだ、と思えた」
というメッセージで(ありがとうございます、もうきっとここは読んでいないでしょうけれど、辛かったころ、何度も思い出しました)、家族とか友人とかに注いでいる感情に余裕があるときにしか注げていない程度の好きなんだけども、自分でもバカみたいだなと思うくらいストレートではあるので、温かい言葉には救われたりもしました。
まあ勘違いは山ほどされたんですけど、抱きたいとか抱かれたいとかはマジでどうでもよくて、それに配偶者に何の不足もないのでね。
バスケットが観られるのか、そもそも、日本でプレーする選択を続けてくれるのか、私には分かることはないし、オフィシャルなアナウンスで知ることができるだけの単なるファンで良かった、と思っています。
この時期はもう二度とプレーは実際に見られないのかもしれないな、と思いながら過ごすだけで、5回目のそれはもう慣れました。
思い出すのは過去の映像しかないのだけれど、振り返ってもそれにはあまり意味がないことで、毎日のようにプレーを待ち望むことも、世界の中で何の役にも立ちません。
元気でいればそれだけでもういいのだ、とも思います。私はあくまでサイドラインから椅子に座って観ているだけで、どう足掻いてもそれ以上関われないから、輝きを観られるのです。
イケメン、という言葉があります。ルッキズムといわれる概念からすると、多少引っかかるものはありますし、そのひとことで括られる以上に、私の好きな選手は美しい人です。
何故髪の先からつま先までこんなに綺麗なのか見ながら考えていたことがあったのだけれど、それはプロボーラーとして観られることの所作にプライドを持って気を配って、鍛錬して生きている、魂そのものに美貌が宿っているからだ、と思っています。
格好をつけている、という意味ではないのです。非効率的かと思えるほどに走る選手です。プレーは誰よりも泥臭く、誰よりも冷徹に賢く、誰よりも勝利に貪欲で、そして誰よりもチームのために犠牲になれる人です。
観て分かってくれる人はいないかな、と思ったりはします。顔がいいって何故そう見えるのか、考えて観ていてほしい。彼はプロボーラーだから。
私はその恵まれた体躯をコントロールする冷ややかな聡明さを、指の先までボールを追うバスケットボールに対する執念深さを、その職業意識を心から愛しています。
さて、祈るのはそれぞれの望みが叶うことです。それが私の望みです。
好きばかり書くと飽きられます。ただ書いておいて何になるものでもありません。だから控えていたけれども、七夕くらいは許されるかしら。
2020.07.07.