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【短編】大人の女は簡単じゃない

生理不順が続いている。
もう間もなく女としては人生を終えるのだろう。
急に身体がほてったり、セックスをしたくなったりする。
もうずいぶんしていないのに、だ。
そうはいっても、まだ40に少し乗ったくらいだ。
同年代の友人たちは更年期だといい、子育てもひと段落、夫との関係は冷めきっていると言う。
私は違う。
そう贖ったところで、時の流れと身体の退化には逆らえない。
毎朝、鏡を見るたびにため息がこぼれてしまう。
眉間に刻まれたシワは次第に深さを増しているし、口元を囲むように美しい法令線が浮かび上がる。
洗面台に手をついて、頭を垂れる。
毎日の日課になりつつある。
私たち夫婦には子どもがいない。
だから、周りの主婦たちより多少は若く見られるし、実際、精神的にも若さを保てていると思う。
それでも流れる歳月を止めることはできない。
夫はもう何年も前から私の体に触れてこない。
諦めて、ぐっすり眠れるようにとベッドルームも別々に持つようになった。

暇を持て余してなんとなくオンラインゲームで知り合った男性と会ったりもしたけれど、関係を持つには至らなかった。
そんな男たちは決まって、年齢よりも若く見えるなどと見えすいた嘘を言い、耳元で甘い言葉を囁いて、腰に手を回してきたけれど、そんなことは嘘っぱちだと、冷静なもう一人の私が不機嫌につぶやいて、その手を払い除ける。
つまらない毎日だけれど、その平凡な幸せを手放す気にはなれなかった。

その日は突然訪れた。 

彼は…3つ年上の大学の先輩だった。
同じ演劇サークルの先輩で、私が入会したときにはすでに就職も決まり、付き合っていた彼女と結婚するという噂だった。
主役を務め、舞台で大きな声を張り上げる彼に憧れはあったけれど、恋愛感情はなかった。
桜が散る頃、たまたま実家に帰ったときに、近くのコンビニで顔を合わせ、なんとなくLINEを交換した。
それからは毎日のようにくだらない世間話のラリーをしているうちに、なんとなくなんでも打ち明けられる身近な存在になっていた。

むせかえるような暑い夏が訪れ、実家のリノベーションを口実に帰省すると、真っ先に彼に連絡をした。
近くでは会いづらくて、5駅ほど離れた駅前のカフェで落ちあった。

LINEと同じように、ひととおりくだらない世間話を繰り広げると、長い沈黙に襲われた。
おもむろに口を開いた彼の口から思いがけない言葉が飛び出した。

「その…ご主人とは…ないの?」

思わず、手にしたカップを落としそうになった。
なんでそんなことを聞くのだろう。
そんなことを聞かれるような関係ではない。
黙ってうつむいていると、彼は震える声で「出ようか」と言って静かに席を立って、会計を済ませていた。

なんとも言えない居心地の悪さを感じながら、重い足取りで彼の後をとぼとぼと歩いていると、車で来ているから送ると言って、青いセダンの助手席のドアを開けた。
後部座席には古いチャイルドシートが載せられていた。

走り出した車窓のビルの数を数えていたけれど、そのうちビルがなくなって、川沿いの道を走り始めると、今度は自分の心臓の音を数えていた。
それはだんだん勢いを増し、力強くリズムを刻んでいた。

自分の鼓動に耐えられそうにないと思ったとき、車は暗闇の中に入り、急停止した。

ラブホテルか…
まさかこの歳になって、ラブホテルに来るとは思いもしなかった。
結婚前には夫としか付き合ったことがなかった。
初めてのときは夫の一人暮らしのアパートだった。
それからそのアパートで同棲するようになり、その流れで結婚した。

入り口の自販機でルームナンバーを押してお金を入れると、カードキーが落ちてきた。
それから、薄暗いエレベーターで部屋に向かう途中、誰にも会うことはなかった。
こんな便利なシステムになっているのか…
そんなことに感心している場合ではない。
これから起きることを考えなければ。
彼には奥さんも子どももいるはずて、私にも夫がいる。
ここでこんなことになっているなんて夫が知ったら、どんなことになるのだろうか。
生真面目で優しすぎる夫は、もしかしたら涙をこぼすかもしれない。
いや、そうではなく、今までに見たことがないような剣幕で私を罵り、手をあげるかもしれない…
そして、果てには離婚届を突きつけられ、慰謝料なんて請求されたりするのかもしれない…
専業主婦の私には慰謝料を払えるだけの貯金もない。
年老いた両親に自分が浮気をして離婚することになって、慰謝料を払わなければならなくなったから、お金を貸してくれなどとは死んでも言えない…
肩に回った手が勢いよく開いたドアの中に私を押し込んだ。
次の瞬間、閉まったドアに体を押し付けられ、唇で唇を塞がれた。

それからはもう思考が回らなかった。
薄いワンピースはあっさりと剥ぎ取られ、下着姿になった私を見下ろしながら「思った通りきれいな身体だ」と吐息混じりにささやくと、そのままベッドに押し倒された。

抵抗することを考える暇さえなく、下着を脱がされ、彼の熱い身体が私の上にのしかかってくるのを感じていた。
彼は夫とは違う優しい指で、舌で私を攻め続けた。
私は声が出そうになるのを必死で堪え、枕のカバーを口に咥えた。
「もっと力を抜いて…声を出してもいいから…ここはそういう場所なんだから、気にすることなんてない」
その言葉を待っていたかのように私の身体は反応し、唇からは大きな声が漏れた。
何度も何度も彼は私の奥を突いた。
その度に私は身体をのけぞらせ、声をあげた。

1度目が終わると彼はタバコに火をつけ、私の方を見た。
恥ずかしさと後ろめたさでぐちゃぐちゃな感情を隠せないでいると、彼は私の胸に顔を埋めた。
それから、何度も、何度も、時が過ぎるのを忘れて、熱く求め合った。
夫とのセックスでは体験できないような感覚を味わい、私も夫にはしたことがないような舌遣いでそれに応えた。
何度も、何度も、達しながら、飢えた野獣のようにお互いの身体をむさぼった。

どのくらい時が経ったのだろう。
夕方の日差しに気づいて目を開けると、彼は元通りに服を着て、椅子に座ってタバコをふかしながら、私を見下ろしていた。
「シャワーを浴びたほうがいい」
冷たくそう言うと、窓の外に目を向けた。

熱いシャワーで身体の隅々まで洗い流した。
彼の痕跡が少しも残らないように。
いつもより少し胸が張って、ウエストが締っているのを感じた。
ふと夫の顔が頭をよぎった。
いつものように優しい微笑みを浮かべている。
そして深い罪悪感に襲われた。

何と言い訳をすればいいのだろう…
いや、言い訳などする必要はない。
夫には決してバレないのだから。
私が言わない限り。

彼は…彼は妻に言い訳をするのだろうか…
何事もなかったように、妻子の待つ家に帰るのだろうか…

そんなことを考えながら、ワンピースを着ると、彼の後ろについて部屋を出た。
やはり、ホテルを出るまで誰にも会うことはなかった。

車の中では無言だった。
何も話すことなどなかったし、もう充分すぎるほど、お互いのすべてをさらけ出してしまったのだ。
ほんの数時間で。

実家に近づいて、信号待ちをしている時に、ふいに彼が口を開いた。
「今度はいつ帰ってくるの?」

前に誰かが言っていた。

遅すぎる恋愛は人をダメにすると。

米あくまでフィクションです。

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蘭
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