日本は、情報が自給自足状態にあるのか。
なぜ日本人は、英語を喋らないのか。
日本人は、自他共に認める、英語を喋らない民族である。これは個人の実体験としても感じる。海外の友人たちと話していて「ところでユリは〈日本人なのに〉なんでそんなに英語が喋れるの?」と言われたことは、一度や二度の話ではない。
特にヨーロッパでは、英語は喋れて当たり前であり、3か国語かそれ以上の言語を日常的に喋る人も少なくない。ヨーロッパの友人たちと食事をするときは、基本英語だが、英語以外の共通言語を持つ人同士が話す際はその言語にスイッチするなど、複数言語がテーブルを飛び交うのは日常茶飯事。
なぜ、日本人とヨーロッパ人はここまで違うのだろうか。もちろん、日本が島国なのに対して、ヨーロッパは色々な国が陸続きにつながっているとか、母国語もルーツが同じだから修得がしやすいとか、多くの要因があるとは思いつつも、ここでは【言語と情報】という観点から考えてみたい。
日本語の情報だけで、事足りている日本。
日本人が英語を喋りたがらない理由として、その必要性がないと感じている人が多いのもひとつあると思う。確かに日本にいると、情報が自給自足していると感じることが多い。
日本のこの『情報の自給自足状態』について私が考えるようになったのは、ブルガリア人の友人に「英語が喋れないと、世界の情報が全く入ってこない」と言われたのがきっかけ。人口が日本の20分の1程度であるブルガリアなどに比べて、メディアが発展している日本では、日本語の情報だけで充分であるような気はする。
「和訳」というフィルターを通る前の一次情報
しかし、世界中の情報に一瞬でアクセスできるようになった今だからこそ、生の情報のインプット量を増やすためにも、英語をはじめとした他言語を習得する価値も大きくなっているのは間違いない。
例えば、私が個人的に興味をそそられている組織心理学。
もちろん、日本にもすばらしい心理学者はたくさんいるが、やはり最先端の研究がおこなわれているアメリカの心理学者たちがYouTubeで発信しているビデオは、圧倒的に面白い。しかも、この分野で最もタイムリーな情報であるし、なんといっても無料。誰かが日本語に訳すのを待っていたら、その間にも新しい情報は次々と現れる。そもそも和訳されないものも多いうえに、たとえどんなに秀逸に和訳されたものであっても、訳者の解釈というフィルターを通る以上、著者の微妙なニュアンスが抜け落ちてしまうのは仕方ない。
ちなみに私は、本を読む際、YouTubeでその著者のレクチャーやインタビューなどを同時並行で見ながら読み進める。海外の専門家や学者が著書の和訳バージョンを読むことも多いが(日本ではなかなか洋書が手に入りづらく、高いので)その著者の話を実際に聞くと、私が読み取っていたニュアンスと微妙にずれていると感じる瞬間も多々ある。
このズレから得られる気づきを、私はとても大切にしている。
いくつもの言語が飛び交うのが、当たり前になればいいのに。
英語が話せることが特別だとは全く思わないが、事実、これまでに英語が話せたからこそ、めぐり合えた人や訪れたチャンスは数えきれない。日本でも、色々な言語で会話がなされている光景が、もっと当たり前になればいいのになあと思う、今日この頃。
【写真】御茶ノ水のとある風景 ©Yuri Murata