「傷つくならば、それは愛ではない」
チャック・スペザーノの昔、有名になった本。
1日1ページのレッスンが、366日分入った分厚い本で、まりかはただいま190日め。
今日のレッスンが、本のタイトルにもなっている「傷つくならば、それは愛ではない」。
愛は傷つけることはない。
傷つくのは、傷が満たされないときや、ほしいものが得られなかったとき、と、説く。
これだけで、まりかはあー納得、と、思った。
そう、傷つくのは、相手がまりかが望むとおりに動いてくれないときだった。
電話をくれない、会ってくれない、好きと言ってくれない。
別に、相手がまりかを傷つけようとして、意図的にそうしていたわけではなくて、まりかがそうしてほしいと思うタイミングに、相手が同じように思わなかっただけ。
それを曲げてとらえて、傷ついていたのだ、ということに思い当たった。
以下、引用。
『これまで傷の大きさによって、愛の大きさを測ろうとしていたところを見てみましょう。
多くの人が自分の欲求を愛に見せかけて、それにほかの人を反応させようとしてきました。
そういう欲求をもう、手放しましょう。あなたが前に進み、パートナーと心がふれあえるように、それもあなたが望む相手の姿とではなく、本当のその人自身とつながれるように。』
引用終わり。
そうなのだ。
まりかはいつだって、「まりかが望み、求める殿方の姿」を、目の前の殿方におっかぶせてきた。
反対に、まりかは相手が自分の理想どおりにまりかを動かそうとして、同時にまりかも相手の理想とするところを汲み取ってそのとおりに動こうとして、二度の結婚を終わりにしたではないか。
きっと同じことを、去年1月からの恋活で出会った、30人ほどの殿方たちに、してきたのだろう。
好きと言われると好きになると思っていたのは、ただ惚れっぽいのではなく、好きと言ってくれた人に嫌われないように、まりかにかぶせようとした理想のとおりに振る舞おうとしたことに、ほかならない。
「傷つくならば、それは愛ではない」も、世間ではさまざまに解釈されているように思う。
自分を痛い目に合わせるような人は、男性と適切ではない、と読み取ることも多いようだ。
でも、この著者が言わんとしているのは、自分が傷つくのは「ほらこれが私の愛ですよ、だからこのとおりの殿方でいなさいね」と押し付けて、相手が思うとおりに動かなかったとき、ということだ。
しごく当たり前のことだけど、いざ実行しようとすると難しい。
自分が傷つくのは、相手のせいではない。
自分が相手を思うとおりに動かそうとするからだ。
殿方の求める姿であろうともがいて、それなら彼はこう動いてくれるだろうと思い込んで、そのとおりにならずに傷つく。
それを繰り返したのは過去のことであって、さくらまりか52歳、もう繰り返さないと決めた。
行きつ戻りつになるかもしれないけど、必ずこのことばに帰ってこよう。
傷つくならば、それは愛ではない。