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まりかがまりかに戻る時間

「ご参拝列の最後尾は、奥の角を曲がった先になります。
このままお進みの上、並んでください」


いまが1月下旬であることをいやというほど思い知らせてくれるビル風が吹き抜ける中、まりかは東京日本橋のオフィス街で長い列のいちばん後ろに並ぶことにした。
ここは、強運厄除けで名高い、小網神社だ。
関東大震災のとき、宮司らが御神体を抱えて近くの新大橋に避難、御神体が難を逃れたばかりか、新大橋に避難した人たちにも被害が及ばなかった、という。
さらに、著名な占い師がメディアで勧めたこともあってか、気の遠くなるような人数が、ビルの間に毅然と構えるお社からずらりと続いていた。
噂に聞いてはいたが、これほどまでとは。


さくらまりか52歳、実は並ぶことが世の中でもっとも苦手である。
おいしいものを食べたければ並ばない時間か予約を取るなどするし、並ばなければ入れないところはそもそも興味がない。
受診で長々と待たされると、薬などいらないからこのまま帰ってしまおうかと思うほどだ。


この列の動き方からして、およそ1時間というところだろう。
しかも、こんなにきれいに晴れているのに、列は日陰を追うように並んでいる。
それでも、なぜまりかは並ぶことにしたのか。
それは、並ぶことが不快ではない、と、心が囁いたからである。


そもそもこの日は、友人ふたりと東京駅近くでメキシカンを食べにゆく予定だった。
せっかくなので、待ち合わせの前に前から気になっていた小網神社をおまいりしよう、と思いついたのだ。
それが、前日に友人たちや家族が体調を崩してキャンセルに。
少し迷ったけれども、何かをつかめる気がして、ひとりおまいりしてみようと思い立ったのである。


革のブーツに暖かなダウンコートを着てきたとはいえ、アスファルトから上り立つ冷気は容赦なくまりかの体の芯に侵入する。
それでも、なぜか心は軽かった。

ご縁があって先週もらった新しいライターの仕事のこと。
数日前になかなかよくできたと思う原稿のこと。
4月から転職が決まっている新しい仕事のこと。
目指していた夢とは違うけれども、お化粧に磨きをかけ、魔女のようなネイルを美しく飾りたててスナックの女の子している娘のチヒロのこと。
そしてもちろん、2週間前に別れを切り出されたコウジのこと。
来月の旅のこと。


思えば、こんなに正々堂々とぼんやり考えごとをしてよいことは、待ち時間以外にほかならないともいえる。
そう思ったら、ともすれば無為になってしまうこの時間が、たまらなく愛おしくなった。


コウジはあさっての午前中、用事があって会うことになっていた。
まりかが仕事をするフリーペーパーで、彼の趣味であるミニカーについて取材をすることになっていたからだ。
つい1週間前に、ふたりで抱き合った彼の家で、まりかはインタビューをして、ミニカーの写真と格闘することになる。
でもこれは仕事。
甘い感情は傍に置いておかなくては。

そして午後からは、まりかの家に移動して、まだおつき合いしているころにお願いしていたカーテンレールの取り付けをしてもらうことになっている。
仕事が終わったこの時間、彼はまりかの手を取るだろうか。
唇を重ねることはあるのだろうか。
考えても仕方ないことは考えない。
ただいまは、コウジに会える幸せだけ温めよう、と、凍てつく風に吹かれながらまりかは決めた。


私たちつき合っているの? という問いほど無駄なことはない、と、まりかは思う。
正確には、思えるようになった。
生殖年齢なら、これから子どもを持って、育ててゆかなくてはならないと思うだろう。
でも、まりかにはすでに成人したチヒロがいるし、そもそも子宮を全摘している。
コウジの別居の3人の子どもたちも、すでに大きくなっている。
二度も離婚していれば法律婚にこだわりもないし、おたがいの合意があれば恋人と名前をつけなくても肌を重ねてもだれもとがめはしない。
蜜月だと思っていたコウジに突如、別れを突きつけられてから、関係性に名前をつけることの無意味さを感じたのは、皮肉でもあるけれども、希望でもある。
彼と同じくらい、まりかもふたりの関係を見直さなくては思えるようになったのだから。


ふたつ目の角を曲がったところで、まりかは来月の旅先の宿に電話して、高速バスの予約をiPhoneで済ませた。
本当は旅程の半分は彼も一緒にと思っていたのだけど、仕事が忙しいからと言われた。
もともとまりかはひとり旅が好きだし、と、少しだけ強がった。
3つ目の角があっという間にやってきた。


「鳥居の下からは、4列に並んでください。
立ち止まらず、おまいりが済んだらすみやかに外に出てください」


これまではひと目で学生とわかるアルバイトの若者が立っていたが、要のこの場所は日ときわごつい初老のガードマンが大きな声を張っている。
ここまで約45分、不思議と待たされたという感覚はない。
むしろ、何にも邪魔されずに考えにふける時間を与えられた、という気持ちになるのだから、不思議なものだ。
この時間だけでも、足を運んだ甲斐がある。
ほどなく、ガードマンの大きな声に押されるように、まりかの番がやってきた。


さくらまりかとして立てますように。
チヒロがチヒロの幸せを見つけて生きてゆけますように。
コウジが幸せであるように、もしそこにまりかがいる価値があるならご縁がありますように。


一礼してから、銭洗弁天で50円玉を5枚洗い、さらにお札の授与所に並んだ。
クリスタルのブレスレットに引き寄せられるように、授けてもらった。
手首だけは華奢なまりかには少々大きめの水晶ひとつひとつに、龍が描かれている。
信じるものは救われる。
きっとこれからのまりかを、まりかの大切な人たちを災いから守ってくれる、と信じることにしよう。


帰り道、レトロな店構えに魅かれて、喫茶店に入った。
自分の家より自分の家らしい空間だった。
まりかがまりかに戻る時間。
だれにも邪魔されず、まりかでいることができる時間。
そのために今日、まりかはここにいるのかもしれないと思いながら、大きなカップでコーヒーをすすった。

まりかを呼んでいる。
ほら、素通りできないでしょ。
ほらほら、まりかを待っていた。


さくらまりか52歳、今日も幸せなり。

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さくらまりか  
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