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寝てはいけない
もうすぐ夜の十二時になる。寝られずに、携帯電話をベッドの上でいじっていた。
カーテンに人影のようなものを、通りの車のライトが浮き上がらせた。嫌な予感がした。ここはアパートの二階だ。一階の木を登って、不審者がここまで来れなくもないからだ。息を飲んで、動向を窺う。枕元の携帯電話を引き寄せ、いつでも警察に電話をかけられるようにしていた。
携帯電話にメールが来た。
『寝てはいけない』
たったその一言が不気味に光る。
外の人影は微動だにせず、じっとこちらを見ているようだ。何が起きているのか分からず、布団の中でその文字を呆然と見ていた。眠気など起きるはずもなく、背中に嫌な汗が流れる。
『これから来る相手を家に入れるな』
もう一度、メールが来る。
こんな夜に来る相手などいないはずだが。
「ピンポーン」
ぞわっと鳥肌が立った。
「ピンポーン」
開けるなと言われなくても、きっとドアは開けないだろう。
「ピンポーン」
ドアの向こうで、舌打ちしたのは女のようだ。
「まさか、桃香かーー」
身体を起こそうとすると、またメールが来る。
『動くな』
何故こちらの動きがばれているのだろうか。何処かにカメラでも仕掛けられているのかもしれない。でも、何のために?
「ピンポーン」
女は諦めていないらしい。
警察への通報が現実的になってきた。もしかして、バルコニーにいるのは警察だったりしないだろうか。いや、流石に何の断りもなく、警察が一般人の家に乗り込むなんてーー。
『これから女はドアをこじ開ける。ゆっくり、音を立てずにベランダに出ろ』
ドアの向こうで工具を使う音がする。命の危険を感じ、そっとカーテンを開けた。そこにはやっと布団を干すスペースがあるはずだった。なのに、メールに書いてある通り、広く綺麗なベランダがあった。混乱する頭で見渡すと、隣との仕切りの脇に枯れたサボテンが置いてあった。どうやら人影だと思っていたのはこれだったらしい。
『梯子があるはずだ』
慌てて緊急時用の梯子を一階のベランダへ下す。確か、真下の部屋は誰も住んでいなかったはずだ。ぶかぶかのはき潰したスニーカーをはき、恐る恐る梯子を降りて行く。部屋に飛び込んだ女の姿が頭に浮かんで身震いする。何とかベランダに降り、そこからアパートの敷地に降りた。いや、こんなに広いわけがない。小さな遊具まで置いてある庭なんて俺は知らない。ここは、いったい何処だ。
『上を見るな』
メールを見る前に、ベランダを見上げてしまった。
女が見下ろしていた。
女はやはり桃香だった。ずっと昔に別れた妻だ。いや、死んだはずの元妻ーー。
『逃げろ』
メールの受信と同時に走り出す。何処へ逃げたら良いのか分からないが、とにかく此処を離れなければ。
桃香は鬼のような角と牙が生えていた。何故あんな姿になってしまったのだろう。過去を思い出してみるが、結婚生活はそんなに悪いものではなかった。それなのにある日、パート先で知り合った男の家に転がり込んでしまった。その男との生活は幸せではなかったのだろうか。自分の事を捨ててまで選んだ男との生活は鬼の姿になってしまう程、悲惨なものだったのだろうか。
コンビニの光にほっとする。
『コンビニは駄目だ。その先の交差点まで逃げろ』
メールを見て、マジかと呟く。
コンビニを通り過ぎたあたりで、男の悲鳴が上がる。女が警察官に何かを叫びながらナイフを振り回していた。メールを無視していたら、俺もやられていたという事か。
息が上がる。運動不足で足がもつれて転びそうだ。
後ろから猛スピードで自転車が近付いて来る。運転者は女に見えた。
『右へ曲がれ』
交差点を右へ曲がった。自転車は錆びたブレーキ音を響かせながら、真っ直ぐ赤信号で突っ込んで行く。トラックのクラクションが鳴り響き、鈍い衝突音がした。地面に赤い血が広がっていく。
「も、桃香」
戻りかけようとする自分と、恐ろしい光景を、見たくない自分がいた。よろよろと、事故現場に向かう。
「見なくて良いよ。こっちに来ないで」
鬼面を付けた桃香が、横断歩道の向こう側から叫んだ。
「何で、こんな事になった」
「私が選んだ未来がこうだったんだから、仕方ないでしょ。あなたのせいじゃないんだから」
そうなんだろうか。もっと、真剣に帰ってくるように、説得していたら。
「俺は何も知らずに、桃香から逃げてしまった」
「違う。これはあなたの記憶じゃない。彼と私の、いえ。テレビや新聞が作り出したストーリーよ」
テレビで毎日報道された、桃香が起こした事件の再現VTRを俺はなぞっているというのか。
「私の携帯電話も捨てて。ちゃんと自分の人生を生きてよ」
自分のだと思っていた携帯電話は事故のせいで傷だらけだった。電源を入れると割れたモニターに男と微笑む桃香の姿があった。むくむくと、嫉妬が湧いてくる。
「ねえ、駄目だって。もう、忘れて!」
桃香は悲痛な叫びを上げた。
「男は、何をやってるんだ」
「通って来たでしょ? コンビニの前」
「まさか」
「私が刺したの。そしてここまで逃げて来てーー」
「事故にあったのか」
そうだった。思い出した。
「もう、二人ともこの世にいないの」
その現実と向き合えずに、何度も自問自答を繰り返してきた。どうやったら、この恐怖と後悔から逃げられるかと。
「分かってるんでしょ? あなたに出来る事なんかないのよ」
分かっている。ずっと。もう何年も、何十年も前に。だけど、忘れたふりをしていても、また思い出してしまう。事故が起きた日時が来ると、ありもしない自分の過去に繋がってしまう。十二時を指す、微かな時計の針の音で。
『寝てはいけない』
携帯電話が光る。
さあ、逃げろ。鬼がやってくるぞ。
了