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くるりというバンドについて


noteで記事を書くのは非常に体力を使う。


私はくるりというバンドを心の底から尊敬し、愛している。

本当はもっと前からこの記事を書こうと思っていたのだが、心身面の不調等の個人的な理由でなかなか書くことが出来ずにいた。しかし、大学の友人がnoteに小沢健二氏についての記事を投稿していたのを見て、私も書くことを決心した。




くるりとの出会い

私が初めてくるりを良いと感じたのは高校2年生の時であった。
そのくるりとの出会いは、かの有名な"ばらの花""東京""琥珀色の街、上海蟹の朝"ではなく、"Morning Paper"という曲だった。知らない人は、とにかくまずは聞いてほしい。


体に稲妻が落ちたような衝撃が走った。何だこれは。
もちろんこの曲を聴く前からくるりのことは知っていたが、中高時代の僕が持っていたくるりのイメージは、いわゆるポップロックのような楽曲が多い印象だったのだ。それが180度覆された。
とんでもない恰好良さだ。本当に良い、恰好良い演奏を見ると人間は半泣きになるのだなとその時初めて気付いた。
クリストファー・マグワイア氏の荒々しいドラム、岸田繁氏のボーカルや出で立ち、佐藤征史氏のグイグイと攻めてくるベースソロ、そして大村逹身氏の最高のギター。どれを取っても素晴らしい、本当に。

このライブ映像を見た次の日に私はCDショップ屋に行き、この曲が収録されている『アンテナ』というアルバムを買いに向かった。
くるりを隅から隅まで聴くことを決心した2013年の9月であった。




くるりの好きなところ

くるりの楽曲の歌詞は、あまり言葉数が多くはないと思う。
本当に大事な言葉だけを歌う、しかし決して少なくない言葉数。
そのような意味で紹介したい曲が、"カレーの歌"だ。是非とも聞いてみてほしい。


メロディにも、足し算と引き算が上手く使われている。
また、コード進行にもたまげる様な工夫が施されていたりする事がある。例えば、この"春風"という曲。


これは実は私が気付いた訳ではなく友人が気付いたのだが、サビ終了間際の

「少しだけ灯を灯すんです」

という歌詞の部分のコードは、実はA→E→C→Bというオープンコードのみで構成されている。オープンコードだけなのに、と言うのも変な話ではあるが、とても美しく感じる。
「オープンコードだけでこんなに綺麗に、かつここまでアクセントを生み出せるのか…」と友人と二人で感動していたのが懐かしい。


先日、岸田繁氏がツイッター上でこの様なツイートをしていた。


楽曲のコード進行というのは、本当にその楽曲に自然に沿うような形で構成されるべきで、難しいコードを使ったからといって良いものになるとは限らないというのは納得のいく内容だった。
もっとも、結果的にここまでシンプルなものでも美しく魅せる事が出来るのは、今までコード進行に対して想像を絶する程の格闘をしてきたからで、ここに辿り着くまでには様々な試行錯誤があったのではないだろうか。




情景描写と嫉妬

そんな『アンテナ』というアルバムの中で一曲目に収録されている楽曲は"グッドモーニング"という曲だ。


この曲もまた素晴らしいのだが、私は大学に入ってからこの曲に共感できる人間に嫉妬すら覚えるようになった。

この曲は上京する若者(恐らくこの歌詞の登場人物には岸田繁本人の意も含まれていると思うのだが)で、その心情や風景が鮮明に描かれている。
実は私も生まれは京都で、未だに年に数回帰省等で京都に帰ることが多いのだが、私以上にこの曲と照らし合わせて共感できる生活を送ってきた人が同時に羨ましく思えることがある。

この曲の歌詞は別に明るいものではないし、恐らく不安や寂しさを思い返す人も多いかもしれない。
それでも、私以上にこの曲の良さに気付ける人がいるんだな、と考えると本当に羨ましくて仕方なく思えることがある。くだらないと思われるかもしれないが、仕方ない。




インプットとアウトプット

くるりの真骨頂として度々挙げられるのが、くるりという一つの音楽性における他文化の吸収力である。
最高傑作として挙げられる『THE WORLD IS MINE』をはじめ、『NIKKI』、『Tanz Walzer』、『The Pier』など、これまでのくるりの楽曲・アルバムには様々なジャンルの垣根を超えて制作されたものが多い。
クラシックやUKロック、エレクトロニカ、ワールドミュージックなど影響を受けてきた音楽の幅は恐らく私が計り知れないレベルのものだろう。

ただ色々なものを聴くというだけなら、音楽を忍耐で聴くという行為を行ったことがある者なら比較的できるのではないかと考える。しかし、その本当の凄さは更にその先にある。
聞いてきたものを自分達の音楽として昇華する、でも自分達の軸は決してブレてはいない。そのレベルが異常なのだ。
一体このレベルまで辿り着くのにどれだけの時間を要したのだろうか、それを知る術はないが、間違いなくこのくるりというバンドは私の中で凄まじいバンドなのだ。




原点に立ち返らなければいけない瞬間がある

そんな中、2018年にリリースされた『ソングライン』というアルバムはとても意味のあるものだったと思う。
今までの様に、新しい境地に踏み込むような楽曲もありつつも、『さよならストレンジャー』や『図鑑』の時期を彷彿とさせるような楽曲もあった。


何かどこかで迷ってしまった時、自分がやりたい事が分からなくなってしまう時期がある。
そんな時には、原点に戻って一度フラットな状態で考えてみる。
昔はこんな事をしたいと思ってたなあ、これにムカついてたなあ、こういうのとかめちゃくちゃ好きだったなあとか、そんなどうでもいいかもしれないようなことを思い出してみるのもいい。
そこに何か答えがあるかもしれない。

『坩堝の電圧』というアルバムの最後に収録されている"Glory Days"も然り、どこかの変換点や新しい環境に移ったとしても、昔自分がどんなことをしていたのか、どんなことを考えていたのか、そんなことを思い出し帰る場所へと帰ってみるという行為そのものがとても重要なのだ。私だけに当てはまることではないと思う。

くるりがこの曲をこのタイミングで出した意味、それは今の私達にも必要なことであるかもしれないし、本人達にとっても必要なことであったかもしれない。




掘り下げて聴くこと、くるりの「人間臭さ」

私がくるりを聴くようになってから、本人達がブラジルの音楽を聞いているという内容をインタビュー記事やブログを通じて知り、その影響なのか私もMPBやボサノヴァ、サンバを聴くようになった。
好きなアーティストがどんな音楽を聞いているのか、そのアルバムを完成させるのにどのような経緯を踏んで辿り着いたのか、というのが私はついつい気になってしまう。
ルーツや年代を掘り下げて聴く、ということもある意味でくるりから教わったことなのかもしれない。
恋愛の話に例えると、好きな人のことをもっと知る為にその人が好きな食べ物や好きな服、趣味を理解して仲良くなったり更に親密な関係になる、という感じだろうか。

そんなことを考えながらこの内容を書いている時に、私はある一つの曲を思い出した。"男の子と女の子"という曲だ。


失礼な話かもしれないが、この曲を聞いて岸田繁氏も一人の人間なんだなあ、と思った。
別に悪気があるとかそういうことではなくて、今まで作り上げてきたこれほど完成度の高い楽曲を作り上げるのに、音楽以外の多くの時間を犠牲にしてきたのではないかとも考えてしまうこともあったのだ。でも、そんなことはこの曲を聞くと頭の中からフッと消え去ってしまった。

手の届かないような存在だと思っていたが、実は彼も僕らと同じ「男の子」であり、結局考えていることなんて一緒なんだなあと思わされる瞬間が、この曲の中にはあった。
誰にでも感じる事があるかのような普遍的な恋愛感情、でもそれは普遍的に見えるようでその人の中ではとてつもなく特別で、そんな何とも言えないような瞬間的な感情を書き留めている。
こんな人間臭さが見えるようなくるりの楽曲が、私は好きなんだなと思った。




メンバー編成の変化を経て

くるりと言えば、メンバー編成がコロコロ変わるイメージを持っている人が多いのではないだろうか。
最も好きだったのはギターの大村達身氏、ドラムのクリストファー・マグワイア氏が在籍していた頃のくるりであったが、他の編成で活動していた頃も私は好きだ。

この記事で言及したいのは、『NIKKI』以降の岸田氏と佐藤氏の2人編成だった頃のくるりについてだ。
くるりファンの間では、「くるりはそこから変わってしまった」「くるりは大人になってしまった」という様に囁かれていた。
そんな中でも私は2人体制のアルバムも大好きだ。正確に言うならば、最近好きになれた。

先程名前が出た『Tanz Walzer』に収録されている"ブレーメン""言葉はさんかく こころは四角"などは、もうめちゃくちゃ聴いていた。くるりで2番目に好きなアルバムを挙げろと言われればこのアルバムを挙げるかもしれない。


『魂のゆくえ』や『言葉にならない、笑顔を見せておくれよ』も素晴らしい。
この2枚は、今になってからこそ聴くことに意味があると私は思うのだ。"さよならアメリカ""太陽のブルース""デルタ"など好きな楽曲は山程ある。

『言葉にならない、笑顔を見せておくれよ』に収録された"魔法のじゅうたん"は、やはりリリースされるべき時にリリースされた楽曲ではないだろうか。
支えられてきた人々に対してもそうであるし、PVの意味もやはり考えてしまう。




「奇跡」という楽曲について

先程の原点回帰の話にも繋がるが、ファーストインプレッションとは強烈なもので、未だにくるりの中で一番好きな曲は"Morning Paper"である。ただ、私が思うくるりの最高傑作は"奇跡"だ。



ライブ版のURLになってしまい申し訳ないが、とにかく聞いてほしい。サブスクリプションサービスにもくるりの音源があるので、是非そちらで原曲も聞いてみてほしい。


この曲を聞いた、聴き終えた瞬間、「ああ、くるりというバンドに出会えて本当に良かった」と心の底から思った。
ギターソロで初めて泣いた。全てが完璧だと思えるほどに美しかった。

私はこの曲の歌詞について、特段凄いことを書いている訳ではないと考えている。
自分のみならず他の人にも流れている時間、普遍的な日常生活の中で起こるモヤモヤする出来事やどうしようもないこと、その中での生き方。一概に説明出来ないような色々な思いがある。
そんな中で、なぜ岸田繁氏はこの曲に"奇跡"という名前を付けたのだろう。

私には実際にその理由を推し量ることは出来ない。なので、私なりの解釈で書かせてもらう。
この曲を聞いた時、「奇跡という曲名以外ピンとこないな」とも思ってしまった。他に思いつかないのだ。
奇跡は、日常にたくさん溢れている。その中で、私達はそれを見つけるのは困難であるかもしれない。はたまた意図的に見つけようと思って見つけられるようなものでもない。
たまたま偶然生まれた言葉、音、出会い、その点と点を線で結び合わせて生まれた物がたまたまとんでもない完成度になっただけなのかもしれない。でも、それを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのだろう。

ふとした時に目の前に現れる、その時見つけたものを自分の心に書き留めて大切に考える。私は本当にこの曲からたくさん大切なことを教わった。




最後に

数ヶ月前、大学のサークルにドレッドヘアーの後輩が入ってきた(以下、彼の名前をドレッド君とこの記事で書くことにする)。
私と同じくベースを弾いているドレッド君だが、そんな彼とタバコを吸いながらたわいもない話をしていた時、ふと音楽の話題になった。その時彼が発した一言が、私の中ではずっと忘れられずにいる。

「本当に良い音楽って、自分から探して見つかるもんでもなくて多分向こうからやってくるんですよね」

ドレット君のその一言で、私はくるりとの出会いを思い出した。
私がくるりというバンドと出会ったのは別に偶然ではなくて、出会うべくして出会ったのだろうと考えることも出来る。
たまたまメディアの海を漂流していた私がたまたま流されて辿り着いたのではなくて、流されるべくして流されてきたのだ、と。ありがとうドレット君、大事なことに気付けたよ。


他の方のnoteの記事で、くるりは「陰の者の味方であった」という旨の内容の記事を投稿していた方がいた。
とても分かりやすい内容で、そうだなと共感できる箇所も多々あった。ずっと沸々と自分の中で溜めているような、不器用でどうしようもない感情を持つ者の支えになるような曲(『アンテナ』くらいまでだろうか)を歌っていた頃のくるりが好きだというのも、物凄く分かる。

ただ、私はそのような曲でなくてもこれからもくるりをお供に人生を歩んでいきたいと思う。
時間の流れは人を取り巻く環境や感情を変えるが、その揺らぐ感覚すらも私は楽しみたいと思う。
置いてきぼりにしないでくれよという感覚も、全然違う方へと遠回りして寄り道する感覚も、全てを引っくるめて進んでいきたい、今までの変遷すらも私は自らに重ね合わせようとしているのかもしれない。
本人に見られたらなんて烏滸がましい奴だと思われることもあるかもしれないが、これが私自身の答えなのだ。


私達は常にノスタルジーという化け物と共存しながら生活している。
今電車に乗って泣きそうになりながら聞いている"東京"も、友人とへべれけになりながら外で聞いた"ハローグッバイ"も、私の祖母が暮らしている東向日駅の夕暮れのホームで聞いた"チアノーゼ"も、私にとっては特別な瞬間だった。その時聞いていた感覚が一瞬だけのノスタルジーだとしても、それはチェーンの様に繋がれている思い出なのだろう。

その感覚を一番大切にしたい、と聞いていて本当に心の底から思えるバンドが、他の人にとっては違っても私にとってはくるりなのだ。恐ろしいバンドである。




(2020年4月6日 改訂)

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