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【語学習得の心得】ドイツの大学に正規生として入学するまで【海外留学】

0.前書き

こんにちは、Yuriです。ドイツでは日に日に日照時間が減ってきて、もうほとんど冬の寒さです。今月末にある時間変更でまた体調を崩すんだろうなと怯えつつの日々です。私事ですが、今週ベルリンに行って参りました。ドイツ生活10ヶ月目+αで初めてのベルリン訪問でした。一人で美術館めぐりをしたり、友人宅を訪問したりととても楽しかったのですが、中でも友人のパートナーとの会話が一番印象に残っています。彼はストレートで論理的な物言いをする方で、私があってきたドイツ人の中でも特にドイツ人らしいなと思ったのですが、様々なアドバイスを頂きました。今後待ち受けているであろうドイツ人との交流について不安を抱えている私に、ある言葉をくれました。

「ドイツ人にあなたのドイツ語のことで何を言われても、彼らはあなたよりうまくあなたの母国語を話せない」

語学を学ぶ上で一番大切なのは、自分を卑下しないことです。日本にて、点数で評価される英語を学んできた私達にとって、「学習語のレベルが低いこと」と「頭が悪いこと=自分の価値の低さ」は結びつきやすいです。でも、それと私達自身の価値には実はなんの関係もないのです。私のドイツ語の未熟さは私自身の価値を下げない。そんな単純で当たり前のことを、これから語学を学ぶ人には知っていてほしいのです。

私は今までドイツ語の他にも様々な言語にチャレンジしては挫折してきました。今回はその経験をもとに、語学学習全般についての持論を皆様にご紹介できればと思っています。

1. 千野栄一著『外国語上達法』1986年

まず、伝説の一冊をご紹介します。
私が日本の大学でピチピチの大学一年生だったとき、台湾人留学生に教えてもらった本で、比較的古い本ですが、日本語をマスターしている彼のおすすめなら、と思って読んだ記憶があります。

高校生の時からやたらと語学習得を志し、挫折していた私が、この本に出会って何を学んだかといえば、効率的な語学獲得のメソッドなどではなく、語学と向き合うための心構えでした。
例えば、5カ国語を一度マスターした人がその後常にそのレベルですべての言語を使い続けるには、毎日1時間、1ヵ国語づつその言語に触れなければならない、というのです。つまり、5カ国語話者で有りたいならば、常に一日のうち5時間が語学に当てられてしまうということ。一つ語学を学習するごとにその重りが増えていく。本当に語学習得を目指すならば、その重りと常に対峙しなければならない。
私が通っていたドイツの語学学校でも、同様のことを先生がよく言っていました。語学は自転車を漕ぐこととは違う。自転車は一度乗れれば今後もずっと乗れるけれど、言語はやめれば失われていく。
語学習得やマルチリンガルに憧れを抱いていた私は、この本との出会いをきっかけに、無闇に語学を学ぶのをやめました。自分の目指すのはそこではない、ということに気づいたからです。私にとって語学はどこまでも手段に過ぎず、その手段を得て、何をするかが常に重要でした。英語ができれば大好きなハリウッド映画を何倍も楽しめる。ドイツ語ができれば感銘を受けたドイツ文学に、翻訳者の意志を介さずに直接触れられる。フランス語ができれば、イタリア語ができれば…。でも、語学のために、その目的を叶える時間を失うのは本末転倒だと。そこから私は私の習得すべき言語として、英語とドイツ語のみを設定しました。

とはいえ、この本との出会いによって、急激に私の英語レベル、ドイツ語レベルが上がったわけではありません。「上達法」と銘打っているわけですから、この本には確かに実践すれば語学力が伸びるであろう方法も書かれています。ただ、そのやり方は私には向いていなくて、挫折してしまいました。

語学学習のみならず、勉強全体に言えることですが、一人ひとりの性質に合った方法があります。この本のメソッド自体は私には適していませんでしたが、語学学習の心構えという意義深いものを学ぶことができた素晴らしい一冊です。語学学習者必携の一冊ともいわれていますので、まず、読んでみて、自分自身と語学に向き合ってみてください。

2.自分の現在の語学レベルより上の教材は買わない。

私は完璧主義であることを褒められるような家庭で育ちました。小学生の時から自分の予定を分刻みでコントロールして、完璧な達成を目指す。何もかもを「できる側」の人間だと思っていた私が、進学を機に相対的に「できない側」になってしまったとき、私は自分の完璧主義を恨めしく思うようになりました。できない自分と向き合うのが嫌になり、勉強にも力を入れず、勉強せずとも「無難な」大学に入れた自分を誇るような卑屈さを手に入れてしまったのです。何よりも尊い「努力」のもとに成り立っていた完璧主義を犠牲にして。

前書きでも述べましたが、語学学習と自己卑下は極端に相性が悪いです。
語学学習は「できない」自分との対峙。上の図書で扱われていた実践法は、それを特に強制するようなものでした。
「毎日1ページ読めなくてもいいからドイツ語の本に目を通す」
鬼かと思いました。読めない、という事実を毎日突きつけられるストレスを予想すると、私には到底無理。精神力が強ければ乗り越えられるし、今考えれば、実際に使われているレベルのドイツ語に触れることになるので、ゴールが具体化されて効率的に習得できるのかもしれません。
私はしかし少し挑戦したところで諦め、自分の今までのやり方を見返してみることにしました。
努力をやめたと言っても、語学に対する執着はあったので、英語だけを勉強していた受験期。青い話なのであまり鼻高々に語りたくはないのですが、そのおかげで受験英語には自信がありました。その時に私に一番適していたのが、自分のレベルより下または同等の教材を使うこと。ご推察の通り、私は見栄っ張りでもあったので、自分のレベルより遥かに上の教材を手にとっては親の金で購入し、闇に葬る(積読)などということを繰り返していて、もちろん一向に英語力は伸びない。そんなとき、やはり見栄でしがみついていた予備校の偉い英語の先生が言ったのです。この程度ができないなら中学英語からやり直せ、と。日本の学歴社会を象徴するような否定的で酷いセリフですが、私はその先生に心酔していたので、親に一生懸命についていく生まれたての雛のように言うことを聞きました。じゃあ中学英語からやり直そう、と。
実際、自分のできなさを自分で否定して行動に移すより、他人に否定されて行動するほうが気楽なものです。自己責任の枠組みから離れて、他人に責任を押し付けることもできるのですから。
そうして私は予備校近くの本屋に行き、実際に中学英語の参考書を手に取り、その内容すら全く頭に入っていなかった自分に驚き、愚直にその参考書に取り組みました。その一冊をやり終えたとき、私は自分の中にわずかながら自信が芽生えているのに気が付きました。少なくとも中学英語は完璧にできるという自信。「できる」自分との久々の対面は、私の自己肯定感を高めました。そうして、できることをふやしていったら、私の英語力は簡単に伸びたのでした。

語学学習とは全く関係のない受験勉強の話になってしまいましたが、
そこから学ぶことは大いにあり、私は次のドイツ語学習でも自分の実力に見合った教材を使うことを決めました。独検3級を目指すのに2級向けの単語帳は買わない、とか、2級の対策をしていても3級の単語帳の中身が頭に入る前に2級の単語帳を買わない、とか。

難解な教材で、できない自分に毎回向き合うよりも、できるようになっていく自分を肯定していくやり方。そうして私は自分を無意味な重圧から解放することに成功し、語学学習に必要不可欠な「自己肯定」を知ったのです。

3.まとめ

日本人は人前で「話すこと」に対して特に抵抗があるように思います。外国語に関してだけでなく、母国語であってもです。それはきっと他人と自分を比較する文化の中で育ったからではないかと私は思っています。誰かと比べて自分は劣っている、優れている。成績順位表を見上げて、誰々に勝った、負けた。話すことは人前に触れ、そして誰かと比べるために評価される場である、と私たちは思ってしまうのではないでしょうか。
自己肯定が語学学習に必要とは言っても、評価される社会の中で得られる「相対的な」自己肯定はやはり適さないと思うのです。前書きでも触れたように、だってどうしても自分より長くその言語に触れている母語者には敵わないわけですから。私たちは語学学習の際に「絶対的な」自己肯定が必要なのです。

私が語学学校で新しいC1のクラスに上がったとき、自己紹介の場がありました。皆が趣味や話せる言語などを紹介する中、私は、「日本語、英語、あとドイツ語を少し」と、特に自己卑下もなく言っていたのですが、(とはいえ、話せる言語としてこの段階でドイツ語というのもかなりチャレンジングだったと思っていたのですが)隣の女の子がそれを聞いて笑ったのです。C1のクラスにいて少し、なんて、と。B2のクラスを卒業しておいて、少しなんて、と。目からウロコが落ちる思いでした。その時、私はまだ相対的な自己肯定感で語学学習と向き合っている自分に気づいたのです。ヨーロッパ規格のB2といえばその言語で就職が認められるレベル。その課程を終えておいて、ドイツ語が話せないというなんて。彼女はしかも、私の言い様を謙虚だとか卑屈だとかではなく、傲慢だと捉えたようだったのです。確かに、その見方もできるでしょう。例えば必死にB1で頑張っている人に対して、私はB2だよ?ドイツ語できないけどね。なんて言えないでしょう?

よって、私が特におすすめしたいのが、英語でも何でも、語学学習の際に、他人と比べるプラットフォームに自分をすべて投影してしまわないこと。
せっかく言語規格なんて基準があるのだから、それを絶対評価として使ってしまえばいいのです。実際、語学は点数をつけるためにあるわけではありません、誰かと比べるためにあるわけでもありません。その言語を使いこなすという絶対的な結果のためにあるのです。

ここまで、語学学習に対する私なりの心得をまとめてみました。
なにか一部でも皆様の琴線に触れるような、参考になるような内容であれば幸いです。
それでは。

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