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≪わたしごと71≫文化と価値のオーセンティシティー
保存修復のお仕事をしていて、文化ということと価値ということについて考えたりする。どちらの言葉もなんだか捉えにくい。
捉えにくいのはおそらく、それが多様で流動的でもあるからかもしれない。時代や環境、土地などいろいろな要因で変わる。でも逆に言うと、文化や価値というものは多様で変化するもの、という事は言えるのかもしれない。
文化というものは、良しとするものの共通理解があること、というような定義づけを聞いたことがあって、なるほどなと思った。その共通理解はあまりにも当たり前に自然に学習したもので、無意識である事もあるのだろう。
例えば、日本ではバスを待つとき、列に並ぶのは当たり前だけれど、イギリスでは並ばず、バスが止まったところに近い人から先に入ったりする。日本の方が混乱がなく秩序があるように見えるけれど、後者はそれはそれで臨機応変にお年寄りやベビーカーの人に先を譲ったり、先に来てた人にどうぞと促したり、個人で考えて行動する事が促されるという側面がある。
文化は多様で変化するものではないだろうかと書いたが、その価値もそれが属するコンテクストによって変わる。文化財保存や世界遺産などの文化財を扱う場では、オーセンティシティー(authenticity、真実性)という事が語られる。何がその文化財のオーセンティシティーかが議論され始めた19世紀後半から、それはマテリアル(その文化財をかたちづくる素材そのもの)だろう、から文化財がある環境も含めての文化財だろう、そして1994年の奈良憲章では遺産を構成する有形のものだけでは無く、それにまつわる無形のものも議論され始める。
無形のものも語られた発端は、日本の伊勢神宮だと理解している。世界遺産の登録などが始まった時、当初はマテリアル重視だったので、宇治の平等院の様な建造物はもとの建材が残っているのでokだが、20年ごとに建替えられる伊勢神宮は、オーセンティシティーの規範から外れてしまうのだ。しかし伊勢神宮のオーセンティシティーとは建物それ自体では無い。遷宮を継承する文化そのものであり、それに使われる技であり、すべての行程でなされる儀式も含まれるだろう。
奈良憲章後、無形文化遺産という概念が出来て、舞踊や音楽などの分野、工芸の技術や伝承なども文化遺産として扱われるようになる。日本はどこかしら"無" に魅かれるような部分がある、と宗教学者の島田 裕巳さんの本に書かれていたが、面白いなと思う。どうしてなのだろう。
保存修復師、英語ではコンサベターと呼ばれる職業だが、コンサベターが保存しているものは、実は文化財そのものではない気がしている。保存しているのは、そのものの持つ価値だ。しかし、その価値自体は人とものとの間で見出されるものだろう。
私は海外生活が10年を超し、最近さらに日本の文化や伝統に関する無知さをひしひしと感じている。日本人ってなんだろうと思うし、日本人のコアって一体なんだろうと考える。伝統工芸をもっと知りたいし、そういった伝統文化は将来どういう形で変化し繋がって行ったら良いのだろうと考えるが、一人で考えてもどこへも行けないので、いろんな方に近い将来会いに行ってお話を伺えたらなと願っている。
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