「おせっかい」の眼差し~ニューヨークの車内にて
「事件」発生
先日私の通勤するマンハッタン⇔NY郊外を結ぶメトロノース鉄道の車内での出来事を書いたが、今日もまた一つエピソードがあったので紹介したい。
金曜日の夜、オペラ鑑賞に出かけた私は23時過ぎグランドセントラル発の電車に乗り込んだ。平日のこの時間帯は仕事帰りの人、というよりはどこかで遊んでから帰路に向かう人が多い印象だが、この日も野球観戦帰りらしく、ニューヨーク・メッツのユニフォームを着た人がちらほら。
私は2人掛けの椅子に一人で座っていたが、出発して15分くらい経過したころ、いきなり後ろに座っていた女性が咳き込むと共に嘔吐してしまった音が聞こえた。あまりにとっさのことで、恐らく袋も何もない状態だったと思うのだが、周りは一瞬ざわつく。
まだ彼女は咳き込み続けていたが、通路を挟んで隣に座っていた親子連れのメッツユニフォームの男性が、彼女に「こんなのしかないけど使う?」と紙袋を差し出す(明らかに耐水性はない・・・)。私も自分のバッグをゴソゴソ探してみたけれど、残念ながら汚物を入れられそうな適当な袋は見つからなかった。そうこうしているうちに、彼女が少し落ち着いた頃、隣の男性は彼女に確認して、席を立ち車掌さんを呼びに行った。
数分経って現れた車掌さんは様子を見て、嫌な顔一つせず、彼女に大丈夫か?原因は分かっているか?Medical Assistanceが必要か?などを尋ねた。彼女は急に吐き気を感じたと答え、「この惨状を何とかしたいのだけど」と訴えた。そして「とにかく恥ずかしいわ、ごめんなさい」と。彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。それに対し、車掌さんや隣の男性は「お気持ちはわかりますが、申し訳なく思う気持ちはありません。誰にでもあることだから。」とサラッとフォローした。
車掌さんは地面をカバーできるものを何か持ってきますね、と答え、数分後、大きなポスターを2,3枚持って現れ、汚物の飛び散った床を覆った。「ほらね、何もありません。」とニコリ。それを見た彼女の表情がフッと和らいだ。遠巻きに見ていた私たちも何だかそれを見てホッとした。
その間、周囲からは「お水飲む?」「テイッシュ使う?」などと声がかかる。私もウェットテイッシュを提供するのが精一杯だったけれど、それだけでも持っていて良かった(こういう時のためにも、備えはやはり必要だ!ビニール袋も入れておこう。)。その後さらに落ち着いた彼女は車掌さんに支えられ、バスルームに席を立つ余裕もできた。
実はこの車掌さん、走行中は「チケットの検察」という重大任務があり、乗客のチケットを確認する作業を遂行しなくてはいけないのだが、この日は大幅に時間が押してしまった模様。再び「チケット拝見!」と来た時にはいつもの時間より大分遅かったのだが、件の彼女の検察の時は「あなたは今日は割引料金ね!」と茶目っ気たっぷりにコメント。こんなところもアメリカの好きなところだ。
温かい視線
今回の様子を見ていて思ったこと。周囲の視線が温かいし、もちろん全員ではないが、一人一人ができることを自然体でやっている気がした。特に今回大活躍だった通路側隣の男性は「赤の他人」の彼女のために、真っ先に手を差し伸べ、車掌さんとの仲介役を自然にこなした。彼女の隣に座っていた女の子は隣席の乗客のいきなりの嘔吐、という出来事にさぞかし驚いたと思うが、特に表情を変えることなく、彼女がバスルームに立つまで、じっと席にとどまっていた(普通に考えると、すぐに席を移動してもおかしくない状態であった)。また、車掌さんはさすがプロ、嫌だ、困った、という表情は一切見せずに冷静に状況に対処していたし、途中ユーモアまで交えて車内の雰囲気がシリアスにならずに済んだ。その他、周囲からの物資支援の声もあったし、落ち着いた後、彼女の席まで行き、様子を聞いてあげている女性もいた。
私の場合、こういうことがあると「もしこれが日本だったら、どうなっていたかな?」「周囲はどんな反応をしているかな?」ということをつい考えてしまう。もちろん、たまたま居合わせた人がどんな人かにもよるのだろうが、私も含め、日本人の習性として、どうしても「他人事」として「(物事を)遠巻きに見てしまう」傾向がある気がする。
一方、アメリカ人はというと、たぶん周囲はもっと「おせっかい」だ。宗教的な考えも影響しているのだろうが、自分と関わり合いのない人に対しても、「自分のできることはないか」を考えて行動する人が多い印象だ。先日の私の「咳事件」の時にも感じたことだが、アメリカでは、日本人が「人は人、自分は自分」と考え、「これ以上介入しないであろう領域」にそっと入り、手を差し伸べる人がいる、ということなのか。そういう人たちの存在は、当事者から見ると間違いなく有難い。
「おせっかい」の効果
どちら良い、悪いではないかもしれないが、今回の出来事について、私はもし同じことが日本で起きたら「その場に居たたまれない気持ち」「何かとんでもないことをやらかしてしまった気持ち」という罪悪感や羞恥心として残ってしまうのではないかと想像する。たぶん、彼女のように「こんなことになって恥ずかしいわ」という正直な気持ちも表現できないまま、逃げるように下車することになる気がする。
一方、昨日の彼女の場合「何かとんでもないことをやらかして、居たたまれなかった。」というところは同じ。でも、その後「周りに助けられて救われた。最後は温かい気持ちになった。」という感情の変化が思い浮かぶ。「こんなことになって嫌だ、恥ずかしい」と思う気持ちはどちらもあるのだが、それを具体的に表現して、消化して帰ることができるところが違う。自分の感情ではないから、あくまでも想像だが、アメリカ式のこうした「おせっかい」は当時者や周囲の心理面にもプラスの影響を与えるのではないかと思う。
「できるだけ多くの人と関わる」「自分のできることをする」、今回の2件を受けて改めて私が感じたことだ。限られた人生、自分のたった一つの行動が他人の小さな幸せに貢献できるのなら、やった方が良い(そしてその幸せは自分にも返ってくる!)。昨夜、周囲の人たちにお礼を言いながら、晴れやかな表情で同じ駅に降りていく彼女の姿を見て、そんなことを感じていた。