重心とダンスの世界観について偏見を垂れ流す(その2)

前回までのおさらい

・重心によって体癖が決まる
・重心の高さはダンスの雰囲気を変える
・筆者は昌磨を開閉型9種と推定

図にしてまとめるとこんな感じ


画像2

で、体癖ってもともと人間の感受性の癖を表す概念なわけで

重心と体癖がリンクして、ダンスと重心もリンクしてるなら

当然体癖とダンスもリンクすると思うじゃん?

つまり体癖の感性とダンスの世界観ってリンクするのかしらって思うじゃん?

今んとこのペアリングとして「バレエ/上下型」「フラメンコ/開閉型9種」説はあり寄りのありらしいのでとりあえずその辺から考えることにする。

体癖にはそれぞれ感受性の中心となる概念があるそうで、例えば上下型なら「正義・名誉」が感受性の中心であり、開閉型なら「愛憎」になる。

上下型と開閉型は重心的に一番離れている体癖だけど、ダンス的にはどうなのかな。


フラメンコはスペインの南、アンダルシア地方発祥とされているが、その起源は諸説ありはっきりしていない。

なぜはっきりしないかというと、歴史が失われているから

フラメンコのもとになったとされるいくつかの文化的土壌であるロマ族、ムーア人、ユダヤ人などの歴史は、中世西ヨーロッパでは敗者の歴史。

キリスト教の再征服運動によりグラナダが陥落して以降、これらの異教徒たちは異端審問など激しい弾圧に晒されていたようだ。当然、苦しい生活だったと思われる。

歴史は勝者によって語られる。敗者は黙って土の下。よって敗者の歴史は消失する。

しかし、文化は継承されたわけだ。

日本人はフラメンコと聞くと「情熱の」とつけたくなるらしいが、情熱と訳されるスペイン語は pasión だ。これは本来、「肉体的・精神的な烈しい苦しみ、耐え難い拷問」をさす言葉である。悼んでも悼みきれない死、忘れようにも忘れられないつらさに胸のつぶれる思いが pasión である。フラメンコの根底には迫害による死と苦しみが川となって黒々と流れている。

聞きかじった話では、スペインは土葬する国なので、死者は土の下にいるという共通幻想があるらしい。

フラメンコダンスで激しく足を踏み鳴らすのは、戦争や迫害により死んだ同胞をその音で現世に呼び戻そうとしているからとかなんとか。

まぁ以上が私がフラメンコについて聞きかじっていることかな。

さて薄ら寒い気分になったところで昌磨の天国への階段を見てみましょうか

(そういや以前、このプログラムは死の香りがするぜ的なこと書いたことあったな)


次にバレエの起源について。こちらは歴史的に結構はっきりしている。

バレエの元になったダンスは、ルネッサンス期イタリア宮廷で余興として演じられていた「Ballo」というダンスで、宮廷の広間で貴族たちが音楽に合わせて歩きながら床に図形を描いていくというものだったらしい。

それがメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ2世の婚姻によってフランスに持ち込まれ、バレエとして発展してきた

その後時代と共に「ロマンティック・バレエ」「クラシック・バレエ」「モダン・バレエ」「コンテンポラリー・バレエ」と雰囲気を変えてきたが、根本的なテクニックやフワフワ・ひらひらと踊る所作はそんなに変わってないかなと思う。

一読してわかる通り、歴史の権力者によって庇護されてきたバレエの歴史はフラメンコと違ってその足跡が明らかだ。

ここに体癖的な見方を持ち込むと、西洋貴族文化ってまさに上下的というか、正義とか、大義名分とか名誉とかを重んじる世界観じゃん?インテリチックていうか。芸術として秩序だった体系を早くから整えているところにすごく上下型の貢献が見えるというか。「権威ある」バレエ団は思いつくけど、フラメンコは権威とは距離があるもんね。

それからバレエの演目は、喜劇にしろ悲劇にしろ物語の文脈が具体的で、時系列がしっかりあるものが多い。(現代作品はそうでもないけど)

この点、フラメンコは歌詞のある音楽を使用していても、物語的なものは少なく、もっと詩的というか、文脈が混沌としていることが多いように思う。

で、物語や文脈っていうのは上下型の世界感だと思うんだよね。

腰椎1番でバランスを取っている上下型は別名頭脳型ともよばれ、理性的で物事を秩序だって考える傾向にある。

ロミオとジュリエットが出会い、恋をした結果、悲劇となった。みたいな物語的時系列に対する感受性が、上下型は強い。

一方開閉型が何かを説明するときにそういう長々とした時系列の説明はしない。端的に結論だけ「悲劇」と言う。

なんでそうなるかっていうと、時間に対する感受性が上下型と開閉型では違うからじゃないかなと私は思っていてですね。

上下型(前後型なども)は時間を古典力学的な感受性でとらえているけど

開閉型(左右型も?)は相対性理論的な時間感覚を用いているような気がするんだ。

つまり上下型にとっては時間は常に一定の速さで流れるものだけど、

開閉型にとっては、時間ってのは伸びたり縮んだりするものとして扱われるので、結果文脈がぶっ飛んだりしているのではないかなーと思います。

そういえばアインシュタインも開閉型9種だったらしいけど

「熱いストーブの上に手を置くと、1分が1時間に感じられる。でも、きれいな女の子と座っていると、1時間が1分に感じられる。それが、相対性です!」

という例え話はユーモアというよりアインシュタインの実体験だったのかもしれない。科学的には時空は質量によって歪むのだが、開閉型的にとっては愛の重さによって歪むのだ。

例えば開閉型9種は、なにか裏切られたとかすごく嫌なことがあると、目の前で今なにが起きていようがずーとその嫌なことをフラッシュバックする習性があるそうです。

これは端から見るとまるでブラックホールの質量に囚われたかわいそうな宇宙船のようにグルグルグルグル同じことにこだわり続けているように見えるんですが

9種の主観的に見ると嫌なことがあった時点から時間が進んでいない状態なだけだったりします。だって重たいものの近くでは時間はのろのろ流れるからね。

フラメンコのpasiónについても要はブラックホール並みにでかすぎる愛憎ととらえると、その混沌として本能的な世界観のスカートのすそくらいはつかめてくるような気がする。かも?


で、バレエは上下型っぽくて、フラメンコは開閉型っぽいのはなんとなくそうかなーとして

その両方(だけでなくもっといろんなジャンル)の要素が取り入れられちゃってるフィギュアスケートのダンス的世界観みたいなものって

一体どんなことになっちゃってるんだよ。


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