看護大学に5年通ったわたし
小さい頃から、特に将来の夢を深く考えたことは
今思えばなかったんじゃないかなと思う。
考えるのがめんどくさいとか、そういうのもあったかもしれないけど
物心つく頃に、地元のクリニックでクラークをしていた母に
「看護師はいいよ〜何かあっても1人でも生きていける」と
言われ続けていて、
「自分は看護師になるんだな」と思い込んでいたから。
高校3年になり、進路を考える時期。
私立高校で大学の推薦が多い学校だったから
みんな周りは特に夢とかはなかったと思うけど
それなりに聞いたことのある大学にいく人ばかりで、
大学生ライフいいなぁ、と思ったりしたけれど
特に勉強を頑張っていたわけでもなかったので、それは無理。
看護大学を指定校推薦で選んだ。
看護師を目指す生徒はおそらく高校で2人しかいなかったので
誰かと競うこともなく推薦で大学は決まった。
当たり前に看護師になると思っていて、
特になりたい!と思ったから看護師を目指したわけでもない。
医療ドラマや看護師ドラマ(当時はナースのお仕事が流行ってた)も
なんとなーく見ていたけど、
この職業に心からなりたい!という
強い意思はなかった。
大学に入学。
入ってみると、
大学生がよく言っている明日は3限からだからゆっくり寝れる〜とか
空き時間が〜
なんてほとんどない。
サークルもあるんだろうけど、多分4.5個?
バイトして友達と遊んでいる方がいいなと思って入らなかった。
友達には恵まれ、毎日楽しかったし、
女子校みたいな雰囲気だったから
はっちゃけていた。
クラスでも1番勉強ができなくてうるさい(最悪。笑)グループで
先生にも目をつけれらていたし、
高校時代の友達がSNSにあげているような自由なキラキラ大学生活とは違う
窮屈な大学生活が
すごく嫌で、尖っていたと思う。
グループのうち2人は1年、2年で留年が決まり、途中で退学した。
実習も、本当に辛かった。
思い返してももう一生経験したくないと思うほど。
山ほどある課題に、2日徹夜も当たり前だったし、
眠い中、なんとか行く病棟は
足を踏み入れた瞬間凍りつく緊張感、
声をかけても無視されたり、冷たい視線を浴びせられて
本当に消えたい、帰りたい。明日病院が燃えてたらいいな、って
毎日思っていた。
今思えば、忙しい業務の中で大変だっただろうなとは思う。
勉強は、
なんとかテストを前日詰め込んで乗り越える。みたいな状況。
そんな時、3年で、留年が決まった。
いちばん仲の良かった親友と、あと数名いたと思うが
同じテストで点数が満たず、留年決定となった。
その後の授業は、気が気じゃなく、授業中涙が止まらなかった。
周りの友達は気まずくてたまらなかったと思う。
家に帰って、両親になんて言おう、そればかり考えていた。
母はとても厳しくて、
テスト期間は夜中まで私の横で勉強しているか見張るような母。
↑これだけ聞くと、やばっ。とよく言われるが、
高い学費を払っているのに、私がだらしなさぎて
見張りたくもなったんだろうとは思う。
でも、見張られていると、
そっちへのイライラが募り、身が入らない。
頭の中は、「あーむかつく。むかつく。」でいっぱい。
これは完全に言い訳です。ごめんなさい
本当に勉強というものをどうしても好きになれず、
きちんとやるべきことをできなかったから
留年しただけなのだけど。
夕方家に帰り、母には駅まで迎えにきてもらった車内で伝えた。
多分泣いたと思う。
父には夕食の時に母から伝わった。
父には、「普通のことをしなかった」と言われた。
母は、意外と怒らず、
父に、「いちばん辛いのは、この子やから、言わんといたって。」
と言ってくれた。
授業料は年間で170万+教材費が更に1年間プラスになる。
申し訳ないなとはその時も思っていたけれど、
今親になって考えると、
この時の両親の対応は自分ではできないのではないかと思う。
仲の良かったグループの半数は4年で卒業し、
私と親友は、最後の長い実習を一年下の学年の生徒と乗り越えた。
この最後の実習のグループは本当に大事で、
半年間ほとんど一緒に過ごすのであり、
眠れない、看護師さん怖い、中 一緒に立ち向かう、助け合う同士だ。
ましてやグループに1人だけ、一個上の先輩の私が入る。
入られる方も入る方も気を使うという辛いものだ。
いつも可愛いな〜綺麗だな〜と目立っていた2人の後輩と
真面目な男子、女子との5人グループだった。
目立っていた女子2人と、意気投合して、
半年間、徹夜を共にして、
休みの時はカラオケに行ったり、飲みに行ったり、
毎日一緒に闘い、沢山笑って、沢山泣いて、
本当に辛いのに楽しい思い出をくれた。
こんなに年下の子と仲良くできるとは本当に思っていなくて、
感謝してもしきれない。
このうちの1人の子に、今の訪問看護を紹介してもらい、
ゆくゆく同じ職場で働くことになる。
なんとか、卒業できることになり、
国家試験も合格した。
国家試験の合格発表日、
母は仕事、父と2人で家にいた。
ネットで発表される。
父は、ネットで検索し、携帯では発表時間に開けないが
ipadならサーバーが混み合わない?ような情報を得ていて
父は発表時間になり、すぐさまページを開いた。
私は、緊張で胸が張り裂けそうで、
父と一緒ではなく自分の部屋で携帯で検索していた。
ぴったりの時刻になると、
あまり感情的ではない、言葉も多くは交わさない父が
大号泣しながら階段を駆け上り、
「あったーーーーーー!あったやんーー!!!」と来た。
長めの反抗期だったので、
「ほんまやなあ」とそれだけ返すと、
父は階段を降りていった。
その後、あの父を思い出して1人で号泣した。
そして、一緒に留年した親友が電話をくれた。
自分の番号より、私の番号を先に探してくれたらしい。
良かったなあと2人で泣いた。
嫌なことがあると、逃げ出したくなる。
留年が決まった時も、留年が決まったやつ、と周りに思われているのが
嫌で、もう逃げ出したかった。
でも、親友がいたから、
年上なのに、温かく迎えてくれた後輩がいたから、
両親がいたから、
逃げずにがんばれた。
留年をすること自体、ダメなことなのだけれど、
でもしていなかったら、
後輩の2人と出会えていなかったと思うと、
留年して良かったなとさえ思う。
みんな結婚して、卒業から8年経つ今でも変わらず温かくて
大好きなふたり。
何より、懐が深すぎる両親が
涙を流して喜んでくれた。
それだけで、この5年間に意味があると思った。
決して留年を勧めるわけではないが、、笑
人生には全てのことにきちんと意味があるのだとは思う。
そして、親が言う、
何事も早めにやりなさい。勉強しなさい。は、
本当にした方がいいのだ。
看護師になり8年。
親に言われた通りの職業になり、勿論良かった。
手に職、どこへ行っても働けるということは強みだ。
でも、何か自分が違う道を進む勇気があれば
変わっていたのかもしれないと思うこともある。
自分の好きなことは何か、
興味があることは何か、
きちんと考えていたら、
もっと他にあったのではないか?と考える。
後悔はない。ここまで、大学を卒業させてくれたこと、
こんなに贅沢なことはない。
32歳、自分のなりたい自分。を考えてみたくなった。
また、そのお話もさせてください。