『憂鬱な楽園』~行方なき疾走~
『憂鬱な楽園』1996年
監督:侯孝賢
脚本:朱天文
出演:高捷
林強
伊能静
※以下の文章は映画の結末に触れています。
南國再見,南國
真っ黒の画面に白く浮かび上がるスタッフ・クレジット。そこに林強の「自我毀滅」のビートが被さり、汽車に乗るサングラスの男が映し出される。浅黒い肌にシャツを羽織り、ネックレスをぎらつかせるこの男は、どう見ても堅気ではない。携帯電話に着信があり応答するが、車両内は電波が悪く、通話がままならない。男は何度も聞き返し、しまいには怒鳴り声をあげる。画面が切り替わり、カメラは走る汽車の後部から後ろへ流れていゆく景色をとらえる。重いビートと歪んだギターが鳴る中、線路沿いの田舎町が広がってゆき、暗転。緑の文字でタイトルが浮かぶ。”南國再見,南國”。
侯孝賢の1996年の映画『憂鬱な楽園』はこのように始まる。三人のチンピラの出口なき放浪を描く青春映画で、第49回カンヌ国際映画祭でワールド・プレミア上映されるや否やその話題は他を圧倒し、台湾本国でも大ヒットとなった。
台湾ニューシネマ
中年になっても定職に就かず、いかがわしい商売で食いつなぐガオ(冒頭の汽車に乗る男)、ガオの弟分で、喧嘩っ早くトラブルばかり起こしているピィエン、ピィエンの恋人で奔放なマーホァ。この三人が本作の中心人物である。彼らは怪しい方法で生計を立てているが、いつかは身を固め、上海かアメリカで一旗揚げたいと考えている。この人物造形は極めて台湾ニューシネマ的と言えるだろう。中国大陸から遠く南に位置し、日本統治下におかれたこともある台湾という地でアイデンティティに不安を抱き、「ここではないどこか」を希求する。特に、どん詰まりな現状を打破するためにアメリカを目指すという彼らの姿は、エドワード・ヤンの『台北ストーリー』(1985)の男女とも重なる。
ガオ、ピィエン、マーホァの物語は非常にシンプルなものである。三人は金になる仕事を求めて旅をしている。ガオは実兄であるシイが所属するやくざとともに詐欺まがいの商売をし、ピィエンとマーホァは、ピィエン一族の土地売却の取り分を求めて彼の地元へ向かう。そこでピィエンは従兄弟の警官と喧嘩沙汰になり、打ちのめされてしまう。ガオとピィエンは復讐のために拳銃を調達しようとするが、従兄弟率いる地元警察に先回りされ留置所行きになる。
『憂鬱な楽園』のストーリーは以上のようなもので、骨子だけ取り出せば直線的でかつ起伏に乏しい。しかし、縦横無尽に枝分かれする挿話や本筋に有機的に作用しない台詞劇が、この作品に立体的な広がりを与えている。そして何よりも、長回しを巧みに使った濃密な画面が豊かな奥行きを醸し出している。
長回し
長回しの多用は侯孝賢作品の特徴の一つである。ヴェネツィアで金獅子賞を受賞した『非情城市』(1989)でも顕著であったし、『憂鬱な楽園』の次の作品、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998)では19世紀末上海の遊郭における人間模様を、長回しを効果的に用いて描き出している。本作、『憂鬱な楽園』の特に優れた場面を紹介してみよう。
中盤、ピィエンが土地売却の取り分を求めて地元へ行き、交渉しているうちに暴力沙汰になってしまうというシーンがある。この場面を侯孝賢は見事な長回しで見せている。ピィエンがある家の戸口をくぐると、入ったすぐのところに彼のおじがいてソファに座っている。ピィエンはその正面に座し、交渉を試みる。画面の手前にピィエンとおじ、左奥に開け放しの戸口という配置になっていてピィエンの表情は逆光で見えない。おじは土地売却で得た財産はすべて息子(ピィエンの従兄弟)が管理しており、自分ではどうすることもできないと言う。そこへ戸口の外から二人の男がやってくる。二人は私服警官で、片方は件の従兄弟であった。彼に促されるままピィエンは戸口の外へ出て、今度は従兄弟との交渉を始める。このとき画面は戸口によって分断され、フレーム内フレームを形成する。その中でピィエンと従兄弟の交渉が行われ、外側(戸口の内側)でその様子をおじが見守っている。交渉は次第に口論となり、不意に従兄弟がピィエンの頬をぶった瞬間、取っ組み合いの喧嘩になってしまう。ピィエンのは従兄弟ともう一人の警官によって取り押さえられ、そのまま連行されてゆく。
侯孝賢はこの交渉から突発する暴力までを描くシークエンスをワンカットでとらえることで、張り詰めるような緊張感とその寸断を効果的に表現している。また、画面の手前と奥を巧みに使い、戸口を用いたフレーム内フレームを作り出すことによって、この場面に画的な密度を与えているのである。
自我毀滅
『憂鬱な楽園』の映像表現でもう一つ忘れてはならないのは、疾走する車両のイメージである。この映画には「走る車両」のイメージが随所に挿入される。上述した冒頭の汽車を始めとして、自動車やバイクといった乗り物が疾走する姿が何度も映し出されるのである。雨の中ガオが運転する車を正面からとらえたショットや、高層のビルが並ぶ街中を走る車の主観ショット。とりわけ印象的なのは、ピィエンとマーホァがにけつするスクーターとガオが乗る大型バイクが峠道を走る場面である。曲がりくねった峠道を、風をうけながら抜きつ抜かれつする二台のバイクを正面からとらえたこのシーンは本作の白眉とも言えるだろう。
これらの「走る車両」のイメージは、このロード・ムーヴィに疾走感を与えているし、三人のチンピラの無軌道な姿にも重なる。根無し草のような彼らは堅気の仕事にもつかず、金のにおいを嗅ぎつけてはあちこちへ疾走してゆく。しかし、その疾走の先にはゴールもなければ出口もない。復讐は未遂に終わり、留置所に入れられた三人は地元警察とシイが所属するやくざとの”手打ち”によって解放される。解放されたあと、彼らは行くあてもなく車を走らせる。夜通し走り続け、明け方になって畑に挟まれた田舎道を走る車は唐突に踏み外し、その疾走が寸断されたところで半ば暴力的にこの映画は終わる。そこで流れる音楽は冒頭と同じ、林強の「自我毀滅」。無目的な生や自己と他者に対する破壊衝動を歌うこの曲は、彼ら三人の姿を象徴するようである。
*サムネイル画像:『憂鬱な楽園』 (institutfrancais.jp)
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