風船が届けてくれたもの
もう30年近く、
前の話になる。
近くのスーパーが開店した記念に
風船をもらった。
その当時、今のように
個人情報に頓着がなく
『誰かに届けばいいな』と
自分の住所と名前を書き、
見つけたら、手紙を下さいと
言葉を沿え、
青い空に飛ばした。
数日後、見慣れない文字で
私宛に手紙が来ていた。
『風船を拾いました』
なんとも達筆な文字の主は
御年80歳近くのおじいさん。
風船が、神社の木に引っかかっていたそうで
わざわざ返事を書いてくれたのだ。
住所はなんと、新潟だった。
私は大阪なので、
風船は何日もかけて旅をし、
新潟にたどり着いたらしい。
そこから、私たちの文通が始まった。
小学生の私には、
読めない文字もあったが
いつも丁寧に
便箋に3枚ほど手紙を書いてくれた。
写真も送ってくれた。
優しそうなおじいさんだったことを
よく覚えている。
山が近いそうで、採った山菜を
宅配便で何度も送ってくれた。
私は苦手な野菜もあったけれど、
家族はとても、楽しみにしていた。
阪神大震災。
私は家を失ってしまい、
避難所や知人宅を転々としていたが、
荷物をとりに行くために
家に戻ると、手紙が届いていた。
おじいさんだった。
被災した私を労う言葉とともに、
封筒に入っていた一万円札。
あのときは、言葉にならないほど
ありがたく、家族みんなで泣いたことを
覚えている。
そして、私は中学生になった。
新しい環境、新しい友達…
いつしか手紙のことを忘れていた。
返事をかかなきゃなーと思いながら、
時間だけが過ぎていく。
私が1ヶ月くらい、返信に時間がかかっても
出してから1週間ほどで
返事が来た。
いつものように、山菜を送ってくれたり
おじいさんは、何も変わらずにいてくれたのに
私はだんだん、それが負担に思えてきたのだ。
おじいさんからの手紙はいつも3枚。
老人会で、楽しかったことや
山菜採りに行った話。
ほのぼのして、あたたかい内容が
私にとっては物足りなかった。
私が書く便箋は、多くて2枚。
1ヶ月、返事を書かないことはザラにあった。
そんな文通は、
約10年にも及んだ。
ある日、手紙に
もうすぐ米寿になると書かれていた。
せっかくだから、
何か送ろう。
そう思って、湯呑みを送った。
きっとすぐに、返事がくるだろうと
思いながら。
しばらく経って、
見慣れない文字で
私宛に手紙が届いた。
おじいさんの息子さんからだった。
そこには、おじいさんが
亡くなったことが書かれていた。
湯呑みは、無事に本人に渡したこと
いつも、私からの手紙を
心待ちにしてくれていたこと、
私達のために、
山まで山菜採りに行ってくれたこと…
家族で、泣きながら読んだ。
身内でもなんでもない。
ただ、風船を飛ばしただけなのに
届けてくれたのは
手紙だけでなく、大切な思い出だった。
もっと、手紙をやりとりしていれば…と
後悔した。
だけど、もうそのおじいさんの元に
届けることはできない。
でも、思い出はいつも胸の中にある。
だから、町中で風船を見かけると
もう一度、あの頃に戻ってみたいと思うのだ。