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『雨とカプチーノ』 ヨルシカ

灰色に白んだ言葉はカプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 窓辺に置いてきて
数え切れないよ

灰色に白んだ心はカプチーノみたいな色してる
言い訳はいいよ 呷ろうカプチーノ
戯けた振りして

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないような思い出を
どうか、どうか、どうか君が溢れないように

波待つ海岸 紅夕差す日
窓に反射して
八月のヴィスビー 潮騒
待ちぼうけ 海風一つで

夏泳いだ花の白さ、宵の雨
流る夜に溺れ
誰も褪せないような花一つ
どうか、どうか、どうか胸の内側に挿して

ずっとおかしいんだ
生き方一つ教えてほしいだけ
払えるものなんて僕にはもうないけど
何も答えられないなら言葉一つでもいいよ
わからないよ
本当にわかんないんだよ

さぁ揺蕩うように雨流れ
僕らに嵐す花に溺れ
君が褪せないように書く詩を
どうか、どうか、どうか今も忘れないように
また一つ夏が終わって、花一つを胸に抱いて
流る目蓋の裏で
君が褪せないようにこの詩を
どうか、どうか君が溢れないように


「そういうのもういいから、ね」
 微笑みの裏側には何が隠されているのだろうか。鬱憤ではないだろうし、失望でもないだろうが、少なくとも彼女の表情と発言は本心からは抽出されていない。
「わかってる、貴方の言いたいことは全部」
 別に共感だったり胸の内を見透かされることはその時は望んでいなかった。
「もうそれ、飲んじゃいなよ」
 欲しいのは、彼女の本心から生み出された言葉だった。短くていい。たった一言で。これから先の人生の指針、とまで大袈裟なことは求めていなかった。ただ、柔らくて優しい本音を。果たしてこれは、贅沢だろうか。
「ぐいっと、ほらっ」
 背もたれから身体を離し、緩めた口元へカプチーノを運んだ。底に沈んだザラつきが苦い。

 また同じ夢を見ていた。幻想の創出ではなく、記憶の再生。気の抜けた雲たちが満足に動くことのできない太陽を嘲笑いながら空を這っている。
 口腔にまとわりついた唾液を吐き出すために洗面台へ向かう。先刻まで彼を記憶の中へと閉じ込めていたベッドに目をやると、脇のローテーブルには氷水で薄められたスコッチが置かれていた。自分の衣服に目をやると外着のままではないか。歯の隙間からため息を漏らしながら着替え、ロックグラスをシンクへ追いやる。
 コーヒーを淹れるためにヤカンを火にかけ、ミルクを冷蔵庫から取り出す。ギロチン窓を開けると塩気を含んだ透明の空気によって室内の毒々しさが中和されてゆく。ちょうどそれは、ガムとチョコを同時に咀嚼するとガムが消え去るような、どこかケミカルめいた後味の悪さを帯びている。
 専らブラック派だったのだが、あの日以来コーヒーの苦々しさが恨めしく感じられるようになりミルクを加えるようになった。豆本来の風味が損なわれるにも関わらず、以前と変わらず専門店でブラジル豆を購入しているのは、習慣だろうか。いや、純粋さを穢す作業が心を落ち着かせてくれるからだ。ミルクを注ぎ、黒い液体を濁った泥水色へと変えるたびに、あの記憶がぼんやりと遠のいてゆく。いっそのことコーヒーから紅茶に乗り換えてはどうかと考えたこともあったのだが、そうすると雨の日のカフェテリアでの出来事がなかったことになってしまう気がした。最後にカプチーノを飲んだあの日は消してはいけない、しかし正対する覚悟はない。手放すことも向き合うこともせず、ちくりと痛みを感じながらそっと胸の奥へと仕舞い込む朝の日課を今日もこなした。
 耳に飛び込んでくる潮騒が夏を告げる。具体的な根拠はないのだが、この地域に住む者ならそれがなんとなくわかる。実際、向かいの家の白壁を背景にした赤色のゼラニウムは季節遅れにも関わらずその存在を高らかに謳っている。
 色めき咲き乱れる花々を見るとなぜだか息が苦しくなる。それは「息を呑む」という感嘆とは異なり、文字通り苦しみを伴うものだ。視覚と嗅覚が感知する多彩さは男の心を豊かにはしない。その眩さが一層心を締め付ける。
 あの雨の日、あの日も花々がやけに目に染みた。多幸感を煽る無遠慮な色彩がむしろ鬱陶しかった。
 目の前を揺れるブロンドの隙間から見えた赤のゼラニウムは自分を嘲笑っているように見えた。そして、雨すらも。無機質な鉄製の丸テーブルとイスは窓の近くに置かれていて、そこに打ち付けられていた水の粒はゆらゆらと滑り落ちた。ぐったりと止まったと思ったら別の雨粒と結託して力強くガラスを伝ってゆく。なす術もなく立ち往生した小さな雨粒を吸収しながらサッシへと導いていた。そうして集められた水滴は小さな水たまりを形成した。狭苦しい場所に追いやられたはずの彼らは目的地へ辿り着いたことを誇っていたようで、低い場所に在るものほど醜いと捉えていた自分の価値観を恨めしく思った。
 この地域では、夜に雨が降る。その度に男は自宅の窓辺に陣取ってひたすらにサッシを目指す雨粒に悲哀と羨望の視線を向けた。窓を這う色を持たないはずの小さな水滴はその奥に咲く花の色と海岸を染める紅色を借りることで大袈裟にその空虚な鮮やかさを主張していた。
 パツパツパツ…サワサワサワ…トントントン…
 あぁ、まただ。またしても花の色と雨粒が仕舞い込まれた記憶を掘り起こしてくる。鬱陶しいと思いながらも目を背けることはできなかった。
 サッシに溜まる水滴たち、次第に大きく形成されてゆく塊を彼女に関する記憶に当てはめる。そして願う。どうか、溢れないでくれと。表面張力の働きにこれほどまで願いを込める男が他にいるだろうか。これがサッシを乗り越え決壊してしまうことは、すなわち彼女との想い出がこぼれ落ちてしまうことを意味している。
 海と空の境界を見失うほどの快晴の日、
「ちゃんと撮ってよね」掻き上げられる金色の前髪。
 橙の屋根を打ち鳴らす翠雨の音色に被さる君の声、
「もう、ロンドンの空じゃないんだから、ニカーって笑いなよ」
 白い四肢を操りながら乗りこなす緑のペンキが剥げた鉄の椅子、
「そういうのもういいから」フォームはすっかり弾けてしまって痘痕面のようになっていた。
 借り物の色を纏う小さな雨粒など、見なければいいのだ。そうしたら、そんなことができたならばどれほど楽だろうか。それでも、この行く末を凝視しなければ、眼前に広がる花畑を一挙に凝縮した水晶に全神経を溺れさせなければ、あのカプチーノの苦味を忘れてしまう。捨てがたい記憶の再生による微かで確実な自傷を受容しながら、今宵もパツパツと鳴る窓に鼻先を押し付ける。