物質+循環÷創造=お金ってなあに?
私はお金のことが大好き。お金は、私のことをどう好きでいてくれるかな?
こんにちは世界。由快ゆっぴです。
2011年に南房総に移住してから1年間は、全く収入が無くてもどうにか生活をしていた。打ち明けると、25歳にして親から月8万円の仕送りを貰わないと生きてはいけなかったけど。でも、親は私に大きくなるまでお金のものの見方を壊さないように与え続けてくれた。お金に関して、子どもに「豊かであるよう」に設定してくれた親に感謝している。
「東京生まれ東京育ちで里山のとある平和活動家の家に移り住んだ20代の若いカップル」という変わったジャッジメントを持たれた私たちには、毎日たくさんのギフトが!シェアメイトの男の子が有機農家で働いていたので売れない形の野菜や、消費期限が切れた平飼い卵を持って帰ってきてくれた。私たちより少し前に南房総へ移住した第二のお母さんのような存在の女性からは、漁師のお友達からの差し入れで大量の生魚も。そして冬にはいのししの食べるものが無くなり山の上から山間地に下りる行動が増える里山では、大量発生しないように、田畑を荒らされないように猟師が大活躍する。狩ったいのししの牡丹鍋は、身がキュッと締まって生臭くなくてとってもおいしかった!いのしし1枚で、とってもオーガズミックなお口の中になるからいのししは少量で充分なのよね。食べる頻度が少ないからエネルギーが強く感じるのかもしれないね。
そんなたくさんの食べ物のギフトに囲まれていたので、スーパーでお肉を買うことはほとんどなく、ベジタリアンになって生きる1年間であった。その昔、旧友に「ゆっぴはどこでも生きていけそう」という面白いものの見方を頂いたことを憶えている。確かに、私はどこでも生きてはいけるけど(笑)どこで生きたいのかな?という選択をするだけで、その「どこ」かは変わるのでは?
2013年に都市に還ってきて、今年で5年目。あのような循環や、特技交換で成り立っていた移住の2年間があったから、都市にはお金というエネルギー交換もあるんだなあ、という氣付きになる。こう「あるべき」こうで「なければならない」まあ、働かなければならないとか、いくつまでに産まなければならないとか、それは私にとっては重要ではなくなった。でもお金という存在で自分を量ってきたところがある。これからもお金を支払って、お金を受け取って生きていくために、どんな楽しみが可能かな?
もし、お金はお金という物質ではなくて、お金は私そのものであるのなら?
この150円、友人Tの裁縫の内職アルバイトに協力したバイト代。内容は、スナップをスカート1枚につき4つ付けていくというもの。ちなみにスナップ1枚につき10円と驚くような価格で、それも1000個以上付ける場所があるらしい。最初のスナップは、1時間かけて1つ終わるゆっくりなスピード。「もしかしたら10円で終わるかもね?」なんて冗談を言ってたけど、その後はスナップだけに向かえばいいことが判ると「どうやって効率よく時短で付けていこうか」なんて要領いいことを閃いたりして、結局4時間で15個のスナップ付けに成功!「お金」は量ではないこと、今回はスナップ付けという特技が増えたこと、「お金をいただく」ことは、経験(徳とも言う)を積ませていただく代わりに頂戴するエネルギーなのかも?という氣付きのお志事だった。
お金はエネルギーであり、お金は愛であり、お金はあなたであり、お金は私である。お金を受け渡すことで、その店や活動を応援するという形の貢献になり私はその貢献のお金をいただいて、またお金を誰かに与えることができる。例えば「お金がかかるから好きじゃない」「どうしてお金がかかるの」じゃなくて、いわばその程度の愛情だってこと。ただお金は応援の貢献代なんだよね。
「お賽銭に1万円入れる」は、お金をとどめないで手放すことで神様の神殿を通し、その何倍にもなってギフトが還ってくる?可能性を秘めたシンプルな循環。逆に「神社だから10円入れておこう」と物質として、エネルギーとしてのお金を蓄えて現状維持を重要視する人もいるだろう。どちらが軽いですか?
あなたはお金持ちになりたい?それとも、お金使いになりたいですか?
私は、お金使いになってどこでも生きていきます。下記にあるサポートで、応援の貢献代を、私に通すことも可能ですよ。「ゆっぴ神社」へようこそ。
これよりもっとどうよくなる?