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せまい世界で生きることの大切さ
今日もお疲れ様です。
ゆっぺいです。
本日は、せまい世界で生きることの大切さについて、最近気づきがあったので、皆さんにシェアしたいと思います。
せまい=悪いと思ってた
せまい世界と聞くとどんなイメージを持ちますか?
私は、価値観や視野がせまい、井の中の蛙、勿体無い、臆病者のように、悪いイメージでした。
それは、私がど田舎の生まれであり、田舎から一歩も出たことがない友人に対して、そういった嫌悪感を抱いてたからかもしれません。
価値観が多様な広い世界
広い世界に行けば行くほど、価値観が多様です。
地元だったら普通だったことも、都会では変だと判断されることもあります。
ただ、自分はずっとその環境で育ってきたわけで、いきなりその価値観に心と体を適用させるのは難しく思います。人間、いきなり進化はできませんよね。
幼い頃は、あまり遺伝や環境要因について気にしていませんでしたが、大人になっていくにつれ、どんどん両親と考え方や体質が実は似ていたんだ、と気づかされることが多くなりました。
蛙の子は蛙とはよく言ったものです。
SNSに揉まれて行き着いた先
今の時代、田舎から都会に出ることの何倍も、SNSの世界の方が、多様な世界と価値観が広がっています。
その中で、思ったんです。
「え?どの価値観を信じて生きていけばいいの?」と。
せまい世界に生きている時は、信じて疑わなかった自分の生まれ持った価値感が、広い世界と多様な価値観に触れれば触れるほど危ういものになって、自分が誰なのか、何を信じて生きていけばいいのか、わからなくなる感覚になります。
広すぎる世界を遮断する勇気
自分が何を信じればわからなくなった結果、自信が途端に無くなります。
自分の信じる価値観、自分の芯、みたいなものがなくなっていくので当然かもしれません。
そこで周りを見渡した時、幸せに生きているように見える人は、所属する場所を制限しているように思いました。
自分の信じたいものを信じるだったり、せまいコミュニティに属する自分を疑わず自信を持つことは大事なのかもしれないと思いました。
偏った価値観の変な宗教にハマることを良いとは言い切れませんが、広い世界で自分のコミュニティがないからこそ、そういうところに藁にもすがる思いでハマってしまうことはあるのかもしれません。
人間は自分の属するコミュニティがないと生きるのが難しいと思います。
様々な価値観があるとわかっているからこそ、何かを信じることも勇気がい裏ますが、「ここで生きる!」と決めて、広すぎる遮断する勇気がないと、生きるのが苦しく感じると思います。