『春と私の小さな宇宙』 その26
※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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修羅場を見守っていたカラスが、黒い翼を広げ、飛び立った。
それを合図に飢えた怪物は雄叫びをあげてハルに襲いかかる。ハルは身構えて相手の動きを予測する。
刹那、周囲がスローモーションに見えた。ひどく、ゆっくり時が動く。熊の開いた口がはっきり確認できた。そこに注射器を放り込む算段である。
外から無理なら直接、体内に入れれば良い。臨戦態勢に入ったハルが、凶悪な凶器を投げ入れようとした、その瞬間。
熊は突如、動きを、止めた。そして大きく開けていた口を、閉じた。そのつぶらな瞳は警戒心で溢れていた。
ハルは自分の犯した誤ちに気が付いた。隙を突くため相手を冷静に分析した。それに より危機を脱することができた。
ハルの判断は確かに正しい。ただ、誤算があるとすれば、 この緊迫した状況で彼女が取った行動は、自然界の動物からすれば、あまりにも異常であ ったことだろう。
強者の本能が獲物の冷静さに違和感を嗅ぎ取り、身の危険を察知したのだ。圧倒的に優勢だった熊が、か弱いはずの人間を警戒したのは、野生の勘と言わざるを言えない。
二度も仕留め損なった経験から、あの人間はただの獲物ではない熊は判断した。目の前の人間が獲物から敵に変わった瞬間であった。
ハルはため息をついた。油断を誘うつもりが自分自身を追いつめていたのだ。自然界で育ち、培った本能を見くびってしまった。
隙を突くためには、弱者を演じるべきだった。 もはや逆転の一手は残されていなかった。
負けを認め、ハルは手から注射器を離した。猛毒の入った容器が石畳に音を立てて落ちる。そのまま転がり、草むらに消えた。
観念したハルは、目を閉じた。両手を白衣のポケットに入れて、最期の時をただ、待った。
勝敗は着いた。
それを理解した熊は、残虐な爪を彼女の喉元に振るう。
目を閉じたハルの脳裏には、なぜか、アキの姿が映っていた。
いつもと変わらない笑顔をこちらに向けて いる。
凄まじい速度で迫る「死」を受け入れた――その時。
それは現れた。
一閃の強烈な蹴りが、熊の右側頭部に直撃した。
突然の出来事に巨体がよろめく。
ハル の前には、金髪の男が立っていた。
「大丈夫かい? ハル」
男は振り返り、柔らかな眼差しをハルに向けた。澄んだ青い目をしている。日本人離れした顔をしており、スラリとした体型をしていた。彼の身長は高く、巨大な熊とそう変わらなかった。
「さすがの君でも危なかったね」
その声は流暢な日本語だった。ハルは男の姿を見て胸を撫で下ろす。
現れたのは過去、共に機関で過ごし、同じ実験体として出会った、ミハエルだった。
「別に助けてほしいと頼んでないわ」
「君らしい返答だね。とにかく、話はこいつを片付けた後だ」
ミハエルは敵意をみせる怪物に立ちはだかった。 熊の視線は明らかに正気を失っていた。
それは狩りを邪魔された苛立ちでも、突然の衝撃による混乱でもなかった。過剰な防衛反応による怯えに近い。
警戒が最大になる。もはやこれは食糧ではない。いままでの常識が通用しない、自身の命を脅かすほどの敵。
二匹の異様なニンゲンを排除するため、無事に生き残るため、「穴持たず」は鋭い爪を振るった。
それをミハエルはひらりと躱し、常人とは思えない身のこなしで熊の攻撃をさばいた。
大振りに振るっていた腕が遠心力で引っ張られ、熊は体勢を崩す。その一瞬をミハエルは見逃さなかった。
即座に怪物の懐に潜り込み、長い足を突き出して顔面に強烈な一撃を食らわせた。 鼻を蹴り上げられた熊は、正気に戻った。
そして、改めて二人の人間を視認した後、化け物でも見たかのようにあわてて森へ走り去った。
「やあ、大変な目にあったね」
彼は何事もなかったように会話を再開した。
「・・・一応、礼を言うわ。けれど、なぜあなたがここにいるの?」
「えっと、君に用があってね。昨日、来日して会いに来た」
「答えになっていないわ。私の言う『ここ』は『日本』のことじゃなく、『この場所』のことを言っているの」
「それなら簡単なことだよ。つけてきたんだ。昔、君に教えてもらった住所に行ったら、丁度二人でどこかに出掛けるみたいだったから。二人きりで話せるタイミングを窺っていた」
「・・・」
ハルは言葉を失った。それほど前から尾行されていたことに気付かなかった。確かに彼は昔から気配の消し方がうまかった。
しかし、感心すると同時に新たな疑問が生まれる。
「どうやってつけたの? バスにはいなかったはず」
「これも簡単なことだよ。君たちがR神社に行く話が聞こえてきたから、タクシーで先回りしたんだ。先に境内へ登って様子を見ていた。君が上まで来てからは木陰に隠れていた」
「それで、私が熊をどうするのかも悠長に観察していたわけね」
「ははは、それは悪いね。あの時はどうやって君がこの危機を乗り越えるのか興味がわいてね。 まさか、死を受け入れるとは思わなかったな」
ミハエルは悪気が無かったと笑いながら謝った。子供の頃、大好きな日本の風景を語っていた時に見せていた、あの笑顔だった。
「まあ、いいわ。それで私に何の用?」
その質問に彼の目の色が変わる。
「ここからはテレパシーで話そうか」
彼の放った言葉はロシア語だった。
それが何を意味するのか、ハルは瞬時にその意図を読み取った。
続く…
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