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『春と私の小さな宇宙』 その8

※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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二月にもなると学生たちはすっかり正月気分が抜け、あくせくと学業に励んでいた。

人々の活気が古びた校舎に生気を与える。 いつもの退屈極まりない講義を終えたハルは、教授室へ向かっていた。 教授に学会で発表する研究論文を手渡すためである。

生物学部の教授室はD棟の三階にあり、室内では教授と助教授が共同で使用している。 棟内の階段が西側にあるので、時間短縮のため西側の道から向かう。

D棟に入って階段を上る。段数は二六段。ハルの目は一瞬でモノの数を数えてしまう。数える必要などなかったが、直接、脳内に数値が浮かんでくるのだ。それまでの過程は存在せず、その結論だけがふっと現れる。

勿論、目に映った映像は完璧に記憶されているので、階段の映像を後で思い出してからゆっくり数えることも出来る。

特に意識しなくても勝手に答えが出てくるのは、ハルにとって当然であり、少し邪魔で もあった。

無駄を省きたいのにいらない情報まで得てしまう。高性能な頭脳であることが逆に合理性を乱してしまう矛盾。いつかその矛盾を解明し、自分の意思で脳を完全にコントロールできる方法を確立しよう。ハルはそう決意した。

階段は三階にもなるとなかなかの距離になる。 以前は特に何とも思わなかったが、現在のハルには少々堪えるものだった。

三階に着くと左に曲がる。教授室は最奥。階段の昇降口から一番遠くの位置である。 その間には論文や発表会に使う資料を整理した資料室、研究に使う実験器具を保管する準備室などが並んでいる。日はすでに傾いており、廊下が薄い橙色に染まっていた。

カツン、カツン。
硬い床は歩くたびに音を反響させる。ハルの物静かな足運びでも完全に音を消し去るのは不可能であった。

教授室は左側にあり、廊下を挟んで右側に窓がある。窓から漏れる紫外線が、冬でも廊下の床に容赦なく降り注いでいる。夕日は窓下のサッシから廊下まで線を伸ばし、その下には二等辺三角形の影を作っていた。

長年にわたって 有害な不可視光線を浴び続けてきたせいか床が変色し、薄黒く、くすんでいる。 廊下の突き当たりには非常階段の入り口が見える。校舎の東側の端には有事の際に避難できるよう、外階段が設置されていた。

しかし現在、その役目はほとんどなされず、踊り場を喫煙所代わりに使う者や教授室への近道に使う者に喜ばれる多目的階段に成り果てていた。

教授室に着き、扉をノックする。扉の向こうからしゃがれた声が返る。引き戸を横に滑らせると、白髪の男が椅子に座っていた。

教授の伊藤である。白衣を身に着けておらず、代わりに群青色のカーディガンを羽織っ ていた。 助教授、宮野の姿は無かった。講義中のようである。

「おお、ハル君。わざわざここまで来てくれたのかい。連絡を寄越してくれれば、わしの方から出向いたのだが・・・」

ハルの顔を見るなり、伊藤は勢いよく立ち上がる。その拍子に恰幅のある腹がタプンと揺れた。

彼の身長はハルより少し低く、腹部は脂肪を過剰に蓄えている。薄くなった頭とドラム 缶のような風貌、おまけに青系の服装を好んで着ているため、周囲からは「イトえもん」 と呼ばれ、生徒たちに親しまれている。

「お気遣いありがとうございます。ですが、教授直々にご足労をいただく程、負担はかかっておりません。ご心配なく」

「そうか? 苦しくなったら言いたまえ。君はT大の宝なのだからね。多くの教師が君の活躍に期待しているんだ。わしはハル君の身に何かあったらと思うと気が気じゃないよ」

周りがどう思おうが正直どうでもいいが、ここは教授の胸中を汲むべきだろう。ハルは丁重に答える。

「今のところ大きな問題はありませんが、不都合が起こればご連絡いたします。その時はどうぞよろしくお願いします」

「そうかねそうかね、ハル君のためならいくらでも手を貸すよ。いや、君の気持ちはわかるよ。わしもこの身体だろう? ここまで毎日階段を上るのはきつくてね、いつも理事長にエレベーターを設置するのはどうかと涙ながらに訴えているよ」

それなら教授室を一階にすればいいのでは? ハルはそう思った。

建立当初からT大の教授室は三階にするのが習わしだと聞いているが、全くもって理解不能だった。

エレベーターの設置などコストが掛かるだけで現実的ではない。 錆びきった伝統の正当化などくだらない惰性でしかないのだ。

こんなわかりきったことをなぜ無駄に考えるのか、到底理解できなかった。 ハルは視線を尖らせ、伊藤の肉付いた顔を睨みつけた。

「すまん、すまん。ハル君は冗談が嫌いだったね。まあ、そんなに睨まないでおくれ、美人な顔が台無しだよ」

わっはっはっと伊藤は豪快に笑う。全く悪びれていないようだ。 それを悟ったハルの目は死んでおり、冷めきっていた。

「ところで、今日はどうしたのかな?」

やっと本題に入れる。苛立つハルは簡潔に要件を告げた。

「先月、頼まれていた学会の論文が完成しました。確認の程お願いします」

持っていたバッグから資料を渡す。

「おお、さすがハル君! 早いねえ、助かるよ」 伊藤は資料に目を通し、笑みを浮かべる。

「これは凄い! 世界がひっくり返るぞ」

肥満教授は生徒が作り上げた論文を見て、感嘆の声を上げた。

「これならわしもノーベル賞受賞者に・・・」

にやりと浮かべた笑みから黄色い歯を覗かせる。

クズめ。ハルの頭の奥で言いようのない「何か」がとぐろを巻いていた。

「それでは失礼します」

「ああ、ご苦労。ハル君、また、お願いするよ」

「・・・わかりました」

要件が終わり、ハルは部屋を出た。直後、部屋の中から大きな笑い声が聞こえた。

いつ、処分するべきか。白衣の右ポケットに入っているものを掴み、ハルは教授室を後にした。


続く…


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