『春と私の小さな宇宙』 その20
※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼の名前はミハイルというらしい。
年齢はハルより二つ上の六歳。生まれた時から言葉をしゃべり、走り回れたため、故郷ではかなり有名だったそうだ。
ここに来たのは自分のことを知るためだと彼は言った。当然、頭の中に直接、語りかけている。とても元気な声の信号を送っていた。
彼の両親はハルの家庭と違い、自分の子供を愛していた。離れ離れになるのはつらかったが、息子の異変を知るために決心して機関の依頼を了承した。
まさか、我が子が拷問のような実験をされているとはつゆも知らずに……。
故郷のロシアから日本に来日すると、彼は環境の違いに驚いたそうだ。異国の風景が新鮮で、別世界に来たみたいだと彼はよく話していた。
木々が赤や黄の葉を散らし、色彩のカーテンを揺らしていたこと。
田んぼといわれる畑では黄金色の穀物を栽培していたこと。
その田んぼに、成長した稲が所狭しに立ち並び、 長方形や三角形の図形を作り出していたこと。
緑の額縁に納まった稲が、輝きを放ちながら黄金の絨毯を波立たせていたこと。
田舎の夜空が宝石に負けないくらい綺麗だったこと。
ミハエルは日本の原風景が気に入ったようだった。あの美しい映像を思いだしては厳しい実験に耐えていたという話を、いつも自慢げにハルの脳内へ語りかけた。
彼と話すたびにハルは欠けていた何かが埋まっていくような感覚を覚えた。
家に帰れられるのは半年に一度だけ。
二回目の実験が終わり、自宅に戻ったハルは本棚に入っていた本を読み漁った。「父」にばれないように細心の注意を払って、彼の部屋から必要な薬品を手際よく取り出した。
両親は相変わらずだった。
「父」は酒に溺れ、「母」はパチンコの景品を部屋に並べて満足気にしていた。
共に暮らす価値はないと思った。研究所で練っていた計画を実行するべきだと判断した。
この家は、両親が存在するメリットが完全に欠如している。
もう限界だった。こいつらを処分しよう。
夜になるのを待った。準備は昼間のうちに済ませてある。「父」と「母」は、二階の同じ部屋で寝ていた。
ハルが消えたことで逆に二人の仲は回復していた。二人で海外旅行に行くつもりなのか、様々な海外のパンフレットや雑誌が本棚に立て掛けられていた。
灰皿に溜まった煙草の吸殻を拾い上げる。煙たがれたハルはいつも一階で寝させられていたので、一階のリビングに置いてあった灰皿から吸殻を入手するのは簡単だった。
計画は至極単純であった。吸殻に火をつけて、積んであった新聞紙の上に置く。それだけだった。
昼。
酒に睡眠薬を入れておいた。「父」の部屋から持ち出した薬品の一つである。 二人は今晩、その酒を飲んでいたので今頃は熟睡しているだろう。
灰皿は吸殻の山ができ、所々に溢れている。 もし、たまたま火を消し切れていない煙草が吸殻の山から転げ落ち、たまたまその下にあった新聞紙の束に乗ったとすれば、これは事故になる。
灰皿のそばにあったライターの火をつける。揺れる火が、ハルの顔をゆらゆらと映す。吸殻に火をつけ、落とした。
両親がいる二階ではなく一階に火をつけるのは事故に見せかけることと確実に始末するためだった。
もし、近くで火が燃え盛っていたら目を覚ます可能性がある。万が一、それで火が消されるか逃げられるかすれば計画は水の泡だ。
しかし、一階ならその危険はない。それどころか、下の階が火の海になって避難経路を塞ぎ、さらに一酸化中毒で思考や行動を停止させる事すら期待できた。
新聞紙の束が勢いよく燃える。部屋を充満していた闇がゆらめく。しだいに不規則な火は大きく、激しく、周囲のものを巻き込んで勢力を増す。ハルが生まれる前に買ったと思われる写真立てが燃えた。
自分と「父」と「母」の写真が入る予定だったであろう写真立てには、ガラスしか納まっていなかった。
ハルは頃合いを見て家を出る。自分の犯行だとばれないように裸足で窓から外に出た。
自宅の周りにはすでに異変を嗅ぎ付けた多くの人が詰めかけていた。 自分が出てくると近所の住人が心配そうに駆け寄った。
誰かが通報したのか消防車のサイレンが聞こえた。赤い光りを点滅させ、野次馬の壁を退ける。消防隊が駆けつけた時には自宅は全焼していた。
ほどなくして消火活動が終わり、玄関から消防隊員が担架で何かを運んでいた。
黒いマネキンだった。
かろうじて人の形を保っていたが、炭素の塊はボロ ボロに崩れかけている。 それはかつて「人間だったモノ」だった。もう一組の隊員も担架を運んで来る。どう見ても焼 け焦げたマネキンだった。
どっちが「父」でどっちが「母」だったのだろう。
ハルは真剣にそんなことを考えていた。 ハルは両親の名前を知らなかった。忘れたわけではない。彼らの名前を知るたびに、無 意識のうちにその情報を脳が消去していたのだ。
だから、名前がわからなかったハルは父親のこと を「父」、母親のことを「母」と名付けていた。
なぜ、両親の名前が記憶から削除されてい たのか。その人間を覚える意味が無かったからなのだろうか。彼らが死んだ今、どうでもいいことだった。
結局、火事の原因は煙草の不始末と結論付けられた。ハルの目論見通りに事は進んだ。
これがハルの、五歳の誕生日の出来事であった。
身寄りのなかったハルは機関に引き取られた。研究者たちは無期限で実験ができると鼻息を荒くしていた。
これも大方、予想していた成り行きであった。
ミハエルと再開する。彼は何度もロシアに帰れないため、一年契約で機関に滞在していた。ハルはほっとする。
世界は自分と彼だけで十分に思う。
ハルは彼の脳波を受信した。
『やあ、久しぶりの我が家はどうだったかな? やっぱり安心するだろう』
テレパシーでミハエルが調子を聞いてくる。彼の隈はまだ消えていなかった。
『ええ、とてもいい気分だったわ』
いらないものを処分できて。
ミハエルには家庭の状況を詳しく話していなかった。余計な気を遣わせるだけだからだ。
『それは良かった。ボクも帰りたいな。帰ったら思う存分、寝たいよ』
『その願いならもうすぐかなうわ。用意はできた』
『本当! なら後はチャンスを狙うだけだね』
ああ、神様……。
ミハエルは神に祈りを捧げた。ハルにはそれが意味不明の行為に感じた。なぜ祈る必要があるのだろう。結果は変わらないのに。
テレパシーの実験が終わり、打ち合わせを済ませた二人は計画の時を静かに待った。
続く…
前の小説↓
第1話↓
書いた人↓