『春と私の小さな宇宙』 その37
※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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彼女が宮野の部屋に入ることはないが、ハルの鼓動は早まった。扉に耳をくっつけ、様子を探る。
足音が近づいてくる。その足音を聞いたハルはおかしいと思った。足音が二人分あるのだ。
ひとつがミチコのものなら、もうひとつは恐らく……。 およそ台所の入り口付近で、二つの足音が止まった。
「今日も来てくれるなんて嬉しい。毎日、来て欲しいな」
ミチコの声がする。もう一人に話しかけているようだ。かなり甘えた声を出している。
「こらこら、そう簡単には来れないよ。でも、君のためなら駆けつけようかな」
「本当! 嬉しいわ!」
もう一人は男の声だった。家庭教師として来た際に気付いた訪問者で間違いなかった。
「そういえば、君の夫の部屋はそっちだったね。ちょっと見せてもらってもいいかな?」
「え~、しょうがないな~。でも、鍵がかかってるわよ」
「もしかしたら、閉め忘れているかもしれない。ちょっと見てみよう。彼の部屋に興味があるのだよ」
男は宮野の部屋に興味を持っているようだった。男がハルの方に近づく。強く家に残った訪問者のにおい。今までに会った人間とそのにおいが一致した人物。そして、その声すらも一致している。間違いない、この男は……。
「どれどれ、中に入れるかな?」
足音が止まり、男がすぐそばに立っている。ハルの心臓が警鐘を鳴らす。男の息遣いまでがはっきり聞こえてくる距離だった。
たった一枚の扉に隔たれた、かつての観察者と実験体。薄く、頼りない板がかろうじてその二人を遮っている。男はドアノブを回し、扉を強く押した。
「おや、やはり開いてませんでしたねえ。残念、残念」
男はドアノブから手を離し、扉から離れた。足音が遠ざかっていく。ハルは胸を撫で下ろす。彼がいきなりここに来るとは予測していなかったが、用心を重ね、入室してすぐ鍵をかけておいたのは正解だった。
男とミチコが一緒に階段を上っていく音がする。ミチコ の部屋に行くようである。 突然の男の訪問にハルの目が暗く沈む。ゆらゆらと揺れる青い水面から時折、深い底に ある濃い闇がのぞくように、ハルの精神は冷徹な色に染まった。
十七年前のあの日、幼いハルを連れ出し、実験の限りを尽くした研究者の男。機関の所長をしていたあの男。
ハルは録画していた記憶を再生する。脱走を実行した日、あの男は会議室にいなかった。 所長を除いた研究員全員がこちらを見ている。 学会の研究発表のため、海外に出張していた所長だけは、ウイルスの感染を免れたのだ。
その後、機関は無くなり、男は別の場所で研究を続けている。それを二年ほど前にハルは知った。
なぜ、あいつがこの時間に?
今は仕事の最中のはず。よりによって、ミチコの不倫相手があいつだとは。
歓迎しない事態だ。自分がこの家の家庭教師をしていると知られれば、 何を言ってくるかわからない。
ハルは解決しなければならない問題に、手段を選ぶかどうか悩んだ。 ハルが下を向いて現状打破に思考を総動員していると、あるものが目に入った。
それはこの部屋にあるはずのないものだった。ハルはそれをつまみ上げる。 それが何を意味しているのかハルは瞬時に理解した。
本棚と机を見る。先ほど読んだ日記とアルバムを思い出し、ある可能性に気付いた。
この仮説が正しければ、パソコンを見なくても確実に突ける。
宮野の弱みを。企みを。
ハルは部屋を出た。自分が部屋に入った証拠は全て隠滅している。二階から女性の喘ぎ声が聞こえた。声はミチコのものだろう。上で何をしているかハルはおおかたの見当がついた。
これはチャンスだと思った。今日は家庭教師として訪問する日。うまくいけば邪魔者を排除できるかもしれない。
ハルは寝室で楽しんでいる二人に気づかれぬよう、宮野家を出た。
続く…
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