カップ麺について私が思うこと
カップ麺を買うとき、少し寂しさに見舞われる。
ただ腹を満たすためだけの食事をとらざるを得ない自分に対する憐れみだろう。
とか言ってるけど、正直、めっちゃ美味しくいただく。焼きそばの湯を捨てに行くときなんて、若干スキップしそうになってるときだってある。「あぁうまっ」とか言いながら食べるし。そういうとこ、やっぱりまだまだ子どもだな、と思う。高校の頃、「明日は弁当作られへんから、ごめんやけどコンビニで買ってな」と母にお金を渡された時、正直ワクワクしていたのを思い出す。母の弁当はめちゃくちゃ美味しかったが、たまに市販のやつを無性に食べたくなることがあったのだ。
それでも何日かカップ麺生活が続くと、さすがに卑屈になる。
体が添加物に侵されていってる悲しさは否めない。あの奥行きのない、想像を超えることのない味にもうんざりしてくる。(※主観です)そんなときに周りの人が焼肉とか食べに行ってたらもう泣きたくなる。
カップ麺は自分にとって、味方であり敵みたいなものだ。お金に困っているとき、味方をしてくれるのはいつもカップ麺だった。泣き言を言っても嫌な顔一つしないで聞いてくれるのはいつもカップ麺だった。こいつは絶対に裏切らない。非常に義理堅い奴だ。
しかし悲しいことに、頼りすぎてしまうと危険な奴なのだ。心身ともに衰弱していく。こんなにこいつと仲良くしていていいのか。こいつと至近距離で絡んでいると危険かもしれない、とだんだん怖くなる。でもなんか、変な安心感もある。ずっと自室にこもっているみたいだ。怖いのは、脳、神経、情緒、何よりも身体が蝕まれていくあの感覚。彼は優しい。優しさゆえの副作用なのだ。ごめんよ、こんなこと言って。傷つけるつもりはなかったんだ、許してくれ。
カップ麺ってなんだか、いつまでも変わらない地元の友達みたいだ。(比喩法が多いですね。)帰省した時とかたまーに遊ぶとすんごい盛り上がるが、いつも一緒にいたいわけではない。「そういやこんなやつだったなぁこいつ」という懐かしさと、少しの嬉しさと、滲み出る田舎くささと。変わらない地元愛、それでいて、もっといろんな世界を見たいというウズウズとした欲望やジェラシーを煮えたぎらせる、なんとも言えない味なのだ。
(※みなさん、戻ってきてください。これはカップ麺の話です。)
そんなカップ麺君よ、これからも何卒お世話になります。いろいろと失礼な発言もしてしまいましたが、わたしはやっぱりあなたを愛してゐます。見方であり、敵でもあり、恩人であり、友であり、なんと言ってもお手頃でお手軽なお食事。ありがとう、カップ麺。貴方の人生に幸あれ。
(は?)
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