自分
先週祖父が死んだ。
昨年の八月、祖父の家を訪ねた。留学に行く前の最後の訪問だった。祖父の耳はほぼ聞こえないため、会話をすることはなく、ただ、留学前のひと時を彼と一緒に過ごした、それだけであった。
そもそも私はこう思う。私は心から、祖父と一緒に過ごしたかったのだろうか。それとも、留学前に祖父とあったという事実が欲しかっただけなのか。
最終日、私は祖父の手を握りながらこういった。「私が日本に帰ってくるまで元気でいてね。」祖父は笑った。硬く固まった手は私の手をかすかに握り返した。その光景をしっかりと覚えている。その感触、その表情、すべてを私は覚えている。覚えているんだ。なのに、それが全て空虚に思えるのはなぜだろうか。その光景を忘れまいとわざと自分自身に刻んだのではないか。なぜ?罪悪感か。何に対して?
私が本当に心に焼き付けたのは祖父か、いや、祖父にそのような「よい」態度をみせた自分自身か。
祖父が亡くなったと聞いた時、私は真っ先にその時の光景を思い浮かべた。それは懐古か、いや正当化だろう。自分は留学に行く前に祖父に会い、祖父に言葉を投げかけたという事実で、悲しむことのできない罪悪感を消したかっただけなのではないか。
私は祖父が死んで悲しかったのだろうか。
私が流した涙は本物か、それとも偽物か。その涙の先には誰かがいた。親、親戚、そして友達。みんなは涙を流す私に対してこういった。「悲しいよね。」と。
わからない、私はわからないんだ。自分が本当に悲しいと思っているのか、それとも悲しさをまとう自分に快楽を覚えているのか。
従兄は葬式で号泣したらしい。すごいな。最初にそう思った。
私も誰かを心から想うことのできる人間になれるだろうか。そういった人間にあこがれはある。しかし、自分には程遠い存在だと、そう感じる。いつか自分の偽善がばれるのではないか、優しさを振りまく自分に快楽を覚えている自分がいることを、誰かが見抜いてしまうのではないか。そしてそれを誰かが見抜いた時、私はこの世界に生きる価値をもう一度見出せるだろうか。
答えはまだない。