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三代続いた親子の確執 その11

両親から、女学校進学を反対され失意のどん底にいた時、救世主が現れた。
その人は、私の担任の藤田先生。ある日、袴姿のいでたちで自宅を訪ねてきたのだった。

ちょうど父が在宅中で、突然の先生の訪問にびっくりしていた。先生は
「娘さんを女学校に進学させないという親御さんの意向ですが、ぜひ進学させてほしい。これからは女の子も教育が必要な時代です。特にみよさんは成績優秀なので、私からもお願いいたします。」と頭を下げて両親に頼んでくれたのだった。教え子のためにわざわざ家を訪ね、両親に頭まで下げてお願いする熱意にほだされたのだろう。

あんなに進学を反対していた父はいともあっさりと「わかりました。進学させましょう!」と藤田先生に返事した。先生は私のほうを向き「良かったね。女学校にいけますよ。」とにっこり微笑んでくれたお顔を、私は今でも忘れない。恩師と呼べる藤田先生の嬉しい訪問だった。

昭和15年4月11歳になった私は、八戸高等女学校に進学することができた。相変わらず、朝早くから家の手伝いが終わってから登校するのだが、近所にあった尋常小学校とは違い、女学校までの登校は、徒歩で1時間くらいかかったので、家の手伝いの時間は少し短縮された。

八戸市内から同じ年代の女学生が集まる学校生活は、ホントに楽しかった。
特に仲良し6人組ができて、後年それぞれが結婚したあとでも、年に何回は集まり、女学校時代に戻りおしゃべりを楽しんだものだ。

一方で、自分とは全く違う友達の家庭環境を羨ましく思っていた。その当時私の家は魚屋を営んでいて、店での販売のほか母がリアカーに魚を積んで
お得意様のところを廻ったりして、近所のおばさんたちは私のことを「魚屋のみよちゃん」と呼んでいた。私はこう呼ばれることが大嫌いだった。教養もなく行儀作法も教えてもらえない母を恥ずかしく思っていた・・・






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