【短編小説】 塀の中の冷凍パスタ
少年は登ることが好きだ。
そして、出会った。
塀を越えたその先で。聳え立ったその山に。
「ぼくはいつか!あのやまにのぼるんだ!」
※
ジリジリと強い日差しが、アスファルトの地面を焦がす。
焼けた地面が生み出す熱と鳴き止むことのない蝉の鳴き声が、人々の外出欲をことごとく奪っていく。
誰もこんなクソ暑い夏の日に外へ出かけようとは思わない。クーラーの効いた部屋で、のんびり読書でもするのが1番なのだ。それが人生。いっつまいらいふ。
だが、そんな暑さにも負けず、外を元気よく駆け回る少年がいた。
名前は、昇吉(しょうきち)。
小学校二年生になったばかりの昇吉は、とにかく好奇心旺盛で『知りたい!』と思った物事は飽きるまで調べ尽くさないと気が済まない。
今日も今日とて、お気に入りの赤いTシャツと深緑の短パン、白いスニーカーを身にまとい、気になるものがないか走り回っていた。
するとそこへ、買い物袋をぶら下げた近所のおばさんが昇吉に話しかけてきた。
「あら、しょうちゃん。今日も探検かい?」
「うん!」
「でも今日は登らないんだね。塀」
「このへんのかべは、もうぜんぶのぼった」
「あらそう。それはなんだか残念ね」
「なんで?」
「この辺じゃね、しょうちゃんが塀から顔を出して来るのを待ってる爺ちゃん婆ちゃんがたくさんいるのよ?」
「ふーん」
おばさんの言葉に昇吉は気のない返事をした。
昇吉たちの住む村は山に囲まれた辺境にあり、村の真ん中には大きな川が流れている。
その川を挟んで西側が住宅区、東側が広大な農地となっている。
「田舎は畑いじりくらいしか楽しみがないからね。しょうちゃんが塀から顔出して、手を振ってくれるだけで、爺ちゃんたちは幸せになるの」
「へー。そうなんだ。じゃあたまにやる」
まだ幼いながらも、これは自分に課せられた使命だと感じたのか、昇吉はやることにした。とても優しい子だ。
おばさんも昇吉のその言葉が聞けて嬉しかったのか、買い物袋から水色の瓶を取り出した。
「ありがとね。はいこれ。暑いから飲みな」
「ありがと。ばいばい!」
おばさんから受け取った冷えたラムネを手に、昇吉は再び走り出した。
※
昇吉は登ることが好きだ。探検と称して近所を駆け回り、塀という塀を登った。
もちろんそこには理由がある。
『塀の向こうには何があるんだろう?』
好奇心旺盛な昇吉にとって塀を越えたその先は、自分の知らない世界が広がっているのではないかという期待があった。
実際そこから見える景色は、昇吉を興奮させた。
物置に置かれた巨大な農機、名も知らぬ美しい花々、道をすれ違うだけでは分からない住人たちの生活。
その全てが、昇吉には隠された財宝のように見えた。
しかし、ここは田舎町。住宅の数も知れている。
塀自体も登れるものと登れないものがあり、登れる塀はほとんど登ってしまっていた。
もう自分をワクワクさせてくれるものは、ここにはないのかもしれない。
それでも昇吉は、好奇心に駆られるまま前へ進んだ。
太陽が南中を迎える頃、ふと昇吉の足が止まった。
村の最北端、山へと向かう道の途中に一軒の家が見えた。
そこで昇吉は、以前おばさんに言われたことを思い出していた。
『山に登る道があるでしょ?あそこの途中にある家には行っちゃダメよ?あそこに住んでる人、気難しいから』
その時の昇吉は「きむずかしいってなんぞ?」くらいにしか思っていなかったが、今の彼にとって『行っちゃダメ』と『難しい』という言葉は火に油を注ぐようなもの。
昇吉は迷わずその家へと駆け出した。
※
「しらないかべだ!」
訪れたことがないのだから当たり前なのだが、そんな細かいことはどうでもいい。
昇吉はおばさんから貰ったラムネを無理やり後ろのポケットに差し込んで、石垣に手をかけ登り始めた。
大人たちからすると塀や石垣なんて覗き込める程度の壁でしかないが、小学校二年生の昇吉にしてみれば背丈の倍くらいある壁だ。
それを登るのは簡単なことではない。
今まで何度も何度も色んな塀を登り、その度に擦り傷を負いながら登り方を学んできた。誰に教わるでもなく、トライアンドエラーを繰り返し、彼自身の手で身につけた力だ。
今その力をフルに活用し、その塀を越える。
まだ見ぬ『何か』を見るために。
そして、昇吉はそれを見た。
——塀の中には冷凍パスタが置かれていた。
体を乗り出し、塀の上にまたがった昇吉はその光景に唖然とした。
そこそこ広い庭の真ん中に、ポツネンと置かれた丸い机。その上に、これまたポツネンと置かれた冷凍パスタの袋。
カンカン照りの夏の光が袋を照らし、袋の周りにできた水滴がキラキラと輝いていた。
コンビニで売っているただの冷凍パスタなのに、やたら神々しく見えるそれに昇吉は今までにないくらい興味を持った。
「なんでこんなところにごはんがあるの?だれがおいたの?どうしてそんなことするの?きになる!ちかくでみたい!みるしかない!」
気になったら調べるしかない。
昇吉はゆっくりと塀から降りて、庭にある冷凍パスタへと駆け寄った。
※
塀を越えた昇吉は家の縁側を一瞥したが、人の気配はまるでなかった。
きっと留守なのだろうと思った昇吉は、わき目もふらずに庭中央にある丸い机へと向かった。
「みーとそーす!うまいやつだ!」
机に置かれた冷凍パスタには、「冷凍パスタ ミートソース」とデカデカと書かれており、一緒に写っているパスタの写真に思わずよだれが出てくる昇吉。
朝から活動しっぱなしで何も食べていなかった昇吉にとって、目の前の冷凍パスタはあまりにも美味しそうに見えた。
覗き込んだ塀の先に、これ見よがしに置かれた冷凍パスタ。
昇吉は得心いったと、右の拳で左の掌を叩いた。
「そうか!これはぼくのためにかみさまがおいてくれたんだ!」
「ばか。それは私んだ、少年」
突然、声が聞こえた昇吉はビビり散らして慌てふためいた。
「わぁ!ごめんなさい!かみさま!まだたべてません!ゆるして!」
「落ち着け。こっちだ。喋ってんのは神様じゃなくて、私だ」
「え?」
少し冷静さを取り戻した昇吉は、声のする方を見た。
先ほどは誰もいなかった縁側に、柱に寄りかかりながら腹を掻いている妙齢の女性が立っていた。
真紅に染まった髪は肩口で乱暴に切りそろえられていて、前髪は顔の左半分を覆い隠している。
上半身を覆い隠すTシャツはサイズが合っておらず、体のラインを嫌というほど強調していた。服を押し上げるその双丘は、息を呑むほど見事な稜線を描いていた。
覆い隠し切れていないヘソの下は、グレーのハーフパンツを履いていた。そこから伸びる色白の脚は、女性ならではのしなやかさを醸し出していた。
昇吉はその女性を見て呆然としていた。それくらい衝撃的で魅力的だった。
母や姉以外で、こんなにも露出した女性の体を今まで見たことがなかった。
昇吉の胸に今までにない高揚感と好奇心が湧いていた。
そんな気も知らず赤髪の女性はポリポリとお腹を掻き続けながら、冷凍パスタ前に立つ昇吉へ話しかけた。
「少年。ここへ勝手に入ってきたことは不問にしよう。代わりにそのパスタをここへ持ってきてくれ」
昇吉は言われた通り冷凍パスタを手にとり、持っていこうと一歩を踏み出した所で、ふと足を止めた。
「どうした少年。はやく持ってきてくれ」
「ねぇ?なんでこんなところにおいたの?」
「え?あー。それはだなぁ。えっとー」
彼女の煮え切らない返事に、昇吉は「なんで?なんでなんで?」と急かした。
昇吉は知りたかった。
冷凍パスタと彼女について。
「どうしてそとにみーとそーすがあるの?」
彼女は意を決し口を開いた。
「あー。電子レンジがないからだ」
時が止まった。昇吉は耳を疑った。
「え?おねえちゃんち、れんじないの?」
「そ、そうさ!ないさ!レンジがないから太陽光でパスタを温めてたのさ!悪いか少年!」
昇吉は、開き直った彼女に憐憫な眼差しを向けながら言った。
「おねえちゃんびんぼうなんだね。かわいそう」
「ぐはっ!!」
子供の容赦ない一言に赤髪の女は崩れ落ちた。
膝から崩れ落ちた彼女は、四つん這いになりながら左手を伸ばし再び言った。
「いいから早く持ってくるんだ少年。腹が減ってるんだ」
昇吉は手に持った冷凍パスタと赤髪の女性を交互に見てから、ハタ!と何かを思いついたように言い出した。
「ぼくのいうこときいてくれたら、かえしてあげる」
「鬼か!」
昇吉は黙って彼女の方を見た。
昇吉の真剣な瞳を見て観念したのか、彼女はあぐらをかきながら「わかったよ」と言った。
改めて昇吉は冷凍パスタを眺めた。
なぜあそこに冷凍パスタがあったのかは分かった。じゃあ、次に解明すべきことはあの女性についてだ。
名前は?家族は?いつからここにいるのだろうか?歳は?血液型は?いつから髪の毛を真っ赤にしたのだろうか?
昇吉の中であらゆる質問が駆け巡った。
でも今の昇吉には、それらのことよりも聞きたいこと、いや、やりたいことがあった。
それは——
「おねえさんのおやまをのぼらせてください!」
「……は?今なんて?」
「おねえさんのおやまにのぼりたい!」
赤髪の女性は「はぁぁぁぁぁ」と大きなため息を吐きながら、右手で顔を覆った。
それから徐に立ち上がり、そばに置いてあった草履を履いて少年の元へ歩み寄った。
「少年。そんなに私のおっぱいが触りたいか」
「うん!のぼりたい!」
ピッカピカの笑顔でいう昇吉。
それに呆れ顔の女性。
「よし。わかった。いいよ。さぁパスタを返してもらおうか」
「やった!はい!」
彼女はパスタを受け取るとそのパスタの袋で、昇吉の頭をポンと軽く叩いた。
「十年早いよ、少年」
「え?ちょっと!ずるい!うそつき!」
「大人はそんなもんだよ、少年」
騙されたことに気づいた昇吉は憤慨した。
むぅと唸る昇吉。
このままでは終われないと、後ろポケットに差し込んであったラムネを素早く取り出した。
そしてすぐさま縦に振り始め、それを見た赤髪の女性はヤバイと焦った。
「少年!それはやめ——」
「くらえー!!」
ポンッと小気味良い音が庭に鳴り響き、水色の瓶から勢いよく放たれたラムネは、見事彼女の顔面に命中した。
顔面を押さえてたたらを踏む赤髪。
昇吉はその隙を逃さず、鍛え上げた足で素早く距離を詰め、彼女の足元で勢いよくジャンプした。
そして昇吉の手は柔らかな双丘へと吸い込まれるように触れた。
洋服越しでも分かる柔らかさと弾力。他に例えようのないその感触に昇吉は感動した。
一瞬の登頂を終え、着地した昇吉は彼女に捕まる前に逃げ出した。
赤髪の女性は「目が!目がぁぁぁぁぁ!」と叫んでいた。
※
帰路についた昇吉は、じっと掌を見つめながらさっきの感触を思い返していた。
もう自分をワクワクさせてくれるものは、ここにはないのかもしれない。そう思っていた。
しかし、出会ってしまった。
塀を越えたその先で。聳え立ったその山に。
「ぼくはいつか!あのやまにのぼるんだ!」
少年の好奇心はまだまだ尽きることはない。
了