【短編小説】 ピアノは覚えてる。
「あなた、ピアノ弾けるんでしょ? あたし、知ってるんだから」
彼女はそう言いながらピアノ椅子に座りあぐらをかいた。短いスカートから見える彼女の脚がさらに露わになった。僕は恥ずかしくなって目を逸らし、音楽室の正面にある偉人たちの写真を見た。いつ見ても変わらないはずの音楽家たちの顔が、なんだかニヤニヤしているように見えた気がした。
転校以来、ずっとクラスに馴染めずぼっちの日々を過ごしていたのだが、突然彼女に呼び出された。
彼女の名前は田川みどり。さらさらした髪は肩よりも少し長いくらいで、名前と同じ緑色の眼鏡をかけている。周りの生徒と比べると大人びた雰囲気の彼女は、クラスでは憧れの存在として一目置かれている。
僕が彼女に関して知っていることと言えばそれくらいで、きっと友達もたくさんいて、僕が関わることはないだろうと思っていた。
そんな田川さんに音楽室に呼び出された。本当にびっくりした。驚きすぎて美人局なんじゃないかと少し疑ったほどだ。学校の中だけど。
もちろんそんなことはなくて、音楽室には彼女しかいなかった。そして今に至る。
窓から差し込んでくる夕日が、部屋を赤く染める。
眼鏡の間から僕を見上げる彼女は、掛け値なしに可愛い。こんな風に話しかけられたら、大抵の男子はコロリと恋に落ちてしまうんじゃないだろうか。
誰にもピアノの話をしてなかった、というかそんな機会すらなかったのに、田川さんは何故僕がピアノを弾けることを知っているんだろうか。率直に聞いてみた。
「あの、何で知ってるんですか? その……」
「ピアノのこと?」
「はい」
僕が言いあぐねていると、田川さんがフォローするように聞いてくれた。ぼっち期間が長すぎた弊害が。
「ピアノを弾けば分かるとだけ言っておこう」
彼女は屈託のない笑顔で答えた。いつも清楚な感じの田川さんだが、笑った顔は子供みたいに無邪気だった。
そのギャップにドギマギしてしまった僕が、少し上ずった声で「そ、そう」と言うと、今度は口元を手で覆いながらふふふと笑った。
彼女は右手の中指でズレた眼鏡を直すと、僕の目を見てお願いしてきた。
「ピアノ、弾いてくれる?」
「……うん。あんまり上手くはないけど……それでも良ければ」
「ぜひっ!」
彼女は満面の笑みを浮かべた。彼女は椅子からぴょんと降りて、座ってと言わんばかりに椅子に向かって手をひらひらさせている。僕はぺこぺことお辞儀をしながら椅子に座り、椅子を引いてから、鍵盤の蓋を開けた。
さて何を弾こうか。座ったのはいいが、何せノープランだ。
ふと彼女のほうを見てみると、爛々と目を輝かせながら僕を見ている。……らんらん。そう言えばこの前、叔母さんのカフェで無理やり、きらきら星の変奏曲を弾かされたことを思い出す。
曲が決まって、僕が鍵盤の上にそっと指を乗せると彼女はパチパチと拍手をした。
僕は深呼吸をして気持ちを整え、
「……よし」
と言って、鍵盤を弾いた。
彼女は僕の弾くピアノの音色を楽しんでくれているのか、目を瞑り左右に揺れている。
それを見た僕は、あっさりと思い出した。彼女の言っていたことは本当だった。
あの日、叔母さんのカフェでピアノを弾いた日。彼女は私服でそこにいて、今のように揺れていた。僕はその時、ピアノを聞いてくれている人がいると思えて嬉しかった。大会で優勝するためにピアノを弾いていたあの日々にはなかった、とても心地いい気分だった。
あの時の彼女が今、目の前にいる。
僕はあの日の感謝を込めて、彼女のために音を奏でた。