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【映画考察】恋人でも家族でも友人でもない、大事な人をあなたはどう呼ぶ?「私の愛を疑うな」 

 浅田若奈監督の『私の愛を疑うな』は、同じ家に帰る縁奈と朝陽が、二人の関係性を自分たちで「名づける」までを描いた映画である。

 周囲が二人の関係性を「恋人」として読み取りたがるのは、二人の存在や行為(一緒に住む)をそのまま受け取るだけのデノテーションで満足できず、コノテーション(恋人関係にある)を付与しようとしているからである。このような記号化の性質が、コミュニケーションを行う際に不可避であるという前提に立って、自分達なりのコードで自己表現をするため、最終的に彼女らは二人のことを「人生共同体」と名付けた。

ここで二人は、他者(非当事者)による自分達の記号化を否定することと、自身達の関係性に必然性や固有性を持たせることに、ある程度成功したと言える。既存のコード(恋人)に替わる新しいコード(人生共同体)を耳にする周囲は、二人の実存そのものを見つめざるを得なくなる。

 加えて、彼女らを名づけへ至らしめたのは、物語ることへの強制と、周囲による二人の物語の無化である。

「飲み会って嫌い(…)説明させるから(…)どういう関係性なの?」「説明しないと透明にされちゃう」という台詞からも分かるように、朝陽が恋愛物語の筋を否定していることを受け、周囲は別の何かしらの筋の存在(説明)を強制する。また、朝陽は、説明するまでは、自分たちの実存が無化されていることを感じている。

加えて、「ぶっちゃけ付き合ってるんですよね、そういうの(同性愛的関係性)偏見ないんで」と言う大洋は、彼女らの存在により、彼自身が自己変容する可能性を否定している。大洋は、「(元々)偏見ない=意見が変わらない」安全な場所から二人を理解しようとしているが、見据えているのは「同性愛者」の物語であり、彼女らの物語は無化される。

つまり、共通の筋を持たないが故に、二人は周囲に物語の存在を強要されるとともに、物語を「聴かれない」という二重の抑圧を受けていたのだ。関係性の名づけという、自らによる新たな筋の創出は、そのような抑圧に対する主体的な抵抗とも取れる。耳馴染みのない「人生共同体」という筋は、周囲を「聴く」側にまわらせる可能性を秘めている。

 このように、他による記号化や、物語化への抵抗を本作品は主題としているとも解釈できる。


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