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不完全で完全なこの世界に生きるということ

生きているということは、能動的な活動である一方で、生かされているという受動的な側面も持ち合わせている。そうである以上、望む・望まないに関わらず、生きることは世界との交渉なのだろう、そんなことをぼんやり思う。

当然のことながら、世界は自分のために創造されたわけでも、自分のために存在するわけでもない。いつだって思い通りになどいかず、理不尽で不平等なのがデフォルトだ。

では、世界が自分に合わせてくれないのならば、自分が世界に合わせていくしかないのだろうか。

私は必ずしもそうではないと思っていて、世界(ここでは“自分の外側の全て”と捉えてほしい)に対して、自分に歩み寄ってもらえるよう働きかけることは可能、かつ、そうした方が良いときというのはあって、私はそれを世界との交渉と呼んでいる。

この世界は、思い通りにいかないことの方が圧倒的に多いからこそ、たとえば、権利を主張することや、他者と親密な関係を築くこと、夢や自由を思い描き、追い求めること、あるいは行動によって自分の希望を満たすことは、眩い光を放つのだろう。言い換えるなら、世界への能動的な交渉は、主体的に生きることを意味する。

ただ、主体的に生きることは、あくまで交渉の在り方でしかない。

何かを得るということは、何かを手放すこと(あるいは引き受けること)でもある。何も失いたくないけれど、ただただ与えてほしいというのでは、きっと上手くはいかない。交渉という天秤は、その片側に獲得する物事を、もう一方に渡すべき対価や、引き受けるべき責任を載せてはじめて均衡が取れるように思うのだ。

反対に、世界との交渉を回避するならば、どうだろうか。当然、それも交渉の在り方の一つだ。ただし、見かけ上は消極的ながらも「交渉回避」という選択肢を選ぶという能動性が発生するため、交渉回避の結果、仮に不利益が生じた場合には、それを引き受けていく必要が出てくるだろう。

自分視点で世界を見るとき、自分が世界の中心となる。そんな天動説的な考え方で生きることは決して悪いことではない。自分を生きられるのは自分しかいないのだ。ただ、その考え方に偏ってしまうと、自分もまた世界の一部であることを見失いがちになる。

世界視点で自分を見るとき、自分がいかに特別でないかを突き付けられる。上記に倣えば、こちらは地動説的な考え方といえよう。周囲との調和を重んじる生き方は、集団の中では歓迎されるかもしれないが、この考え方に偏ってしまうと、自分という“個”の輪郭が曖昧になってしまう。

この二つの視点をどれだけフレキシブルに切り替えられるかは、どれだけしなやかに、柔軟に生きられるかに直結する部分ではないかと常々思う。双方の視点を自分の中に内在化させることは決して矛盾しない。

世界は変わらないが、世界の見え方は限りなく変わる。一つの側面だけの価値に囚われるなら、バランスは容易く崩れてしまうだろう。

ただ、多くの場合、一つの側面だけに自分の意識が偏っていることには、なかなか気付けない。特に、余裕が無い場合にはそれは顕著になる。

たとえば、他者に対して「どうしてわかってくれないの」と思うとき、自分のことを理解すべきという主張を、相手に突き付けようとしていることを自覚している人は少ないだろうし、「察してほしい」と思うとき、相手に自分の気持ちを察するよう、暗に要求していることを意識できている人も多くはないだろう。

こういった具合で、自分の考え方が偏っているかどうかに気付くことは、実はとても難しい。しかし「考え方が偏っているときには、世界と自分の歯車が噛み合いにくくなる」と知っておくことはできるはずで、それは「世界と自分の歯車が嚙み合っていないと感じるとき、自分の考え方は偏ってはいないだろうか」という気付きを与えてくれると思うのだ。

もちろん、私たちはバランスよく生きることを目的にして生まれてきたわけではない。偏りは決して悪ではなく、意図せず偏ってしまったからこそ見える景色もきっとあるはずで、反対に、意図して偏ってみることだって自由なのである。

世界は不完全で、その世界に生きる私たちもまた不完全だ。

その不完全さゆえに、自分の未熟さを嘆き、生きることの難しさに途方に暮れる日もあるだろう。理不尽さに枕を濡らす夜が、孤独に追いやられ膝を抱えて震える日が。

だが、不完全だからこそ、人は悩み、様々な感情に心を揺さぶられ、よりよくあろうとするのだろう。社会を形成し、不足を補い合おうとするのだろう。他者の温もりに安心し、愛を知るのだろう。

憂いや失望に満ちた、こんなにも不完全な世界の薄暗い空気を吸ってきているというのに、完全なまでに美しいと感じてしまう部分もまた、私にとっては確かにあるのだ。

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佐々木ゆに
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