「救う」の傲慢さと「偽善」の謙虚さと
気が付けば2024年も折り返し地点を過ぎて、夏真っ盛りですね。
昨年に引き続き「記録的猛暑」などという言葉が日常的に聞かれている今日この頃ですが、「暑い」という言葉では表せないくらいに「暑い」、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今回は、「救う」の傲慢さと「偽善」の謙虚さと、というテーマでお話ししてみようかなと思います。
「救う」の傲慢さについて
さっそくですが、あなたは「救う」という言葉、あるいは「偽善」という言葉にどのようなイメージを抱いていますか。
一般的にはどうなのでしょうね。
前者に対しては、高潔、立派、正義、他者を優先すること、などポジティブなイメージでしょうか。
後者に対しては、独りよがり、ずるい、勝手、自分本位、などネガティブなイメージでしょうか。
曲がりなりにもこれまで保健師、看護師として臨床に立ち、現在は個人事業主として人様のお話をお聴きするというお仕事をさせていただいていると、「救う」という言葉は、医療職を志し始めた頃からいつもどこか自分について回る言葉だったりします。
ですが、私はこの「救う」という言葉、あまり好きではないのですよね。自分の口から「人を救いたい」ですとか「私があなたを救う」などと言ったこともおそらくないはずです。
というのは、正直なところ、私は「自分が人を救える」とは思ってこなかったですし、きっとこれから先も「自分が人を救える」とは思わないだろうからです。
端くれであっても医療者がそんなことを言うなんてけしからん、救うのが仕事だろうに職務怠慢じゃないか、もしかしたら、そうお思いの方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、人ができることの範疇は、最善と思われることを尽くすところまでだと思うのですよね。私は、それを「救う」という絶対的なワードで表現することなどできないなと、どうしてもそう思ってしまいます。
私たちは、誰であっても、自分の人生しか生きることができないのですよね。
誰かが代わりに自分の人生を生きてはくれないですし、誰かが代わりに自分の人生をどうにかしてくれるわけでもありません。最終的に自分を救ってあげられるのは自分自身だけ、それは例えば、自分の想い、考え方、決断、場合によっては生命力そのもの、そういったものになってくるわけです。
でも、それはすべて一人でどうにかしなければいけない、ということではないはずです。
ひとりで抱えるには重たすぎる荷物なら、ふたりで抱えればいいですし、自分だけではどうしようもなく困ったことがあるのなら、余裕のある人や専門家に手を貸してもらっていいのです。長い人生、いつも順風満帆ではいられないことの方が多いでしょうし、それはお互いさまというものですよね。
手を貸りた上で、自分が決断していく(または、決断しないことを決断していく)、あるいは、自分の人生を生きることを引き受けていくしかないのだと私はそう思っています。いつだって、主体は「その人」以外にはありえないのだと。
周囲ができるのは、「その人」が納得のいく決断をしていけるようにだったり、「その人」が自分らしく生きることを選択していけるようにという、その部分を支援するところまでではないでしょうか。それを、救うという言葉で表現してしまうのは、少々傲慢に感じてしまいますし、救うという言葉を使ったとたんに、「救う側の人」と「救ってもらわないといけない人」という上下の構図ができてしまうのにも個人的にはやっぱり違和感を覚えてしまいます。
それは、私がこれまでに、救うという意識が攻撃性に転化してしまう光景をいくつも見てきてしまったからかもしれません。
わかりやすく代表的な言葉としては「やってあげているのに」でしょうか。
医療福祉の現場の多くは周知のように、人手が足りなければ時間もないといった、さながら戦場のような有様のこともよくあるのですが、そういった環境の中で働くスタッフの中には、残念ながら自身の心の余裕を保つことが難しい様子の方も決して少なくありません。
病棟勤務をしていた頃、もちろん患者様ご本人には直接言わないでしょうが、休憩室の中で「忙しい中、せっかく○○してあげたのに」だとか「やっと退院したのに、まただよ、もう何度目の入院」だとか、そういった類の言葉が飛び交うことは、決して稀ではありませんでした。
(ずいぶんマイルドに表現しましたが、実際はもっと過激でしたね…フォローするわけではないのですが、こうした発言をする方はみなさん決して悪い方ではないのですよ…どこにでもいらっしゃる人たちと言いますか…こうした優しい方たちを豹変させてしまう環境にも重大な問題があるのです…)
そういった言葉を聞くたびに、患者様だって別にあなたに助けてもらいたいとは思っていないだろうけど、と内心よく思っていたものです。
(話は逸れますが、「助けてもらいたい」や「助けてもらって当然」と心の底から思う人たちはどれだけいるでしょうか。本当は手助けされることに申し訳なさや罪悪感、情けなさを感じている人が大多数ではないかなと私は思うのです)
すべての人がそうだとは思いませんが「私は救う側だ」というアイデンティティを形成することは、時にこうした傲慢さを生む危うさがある気がしていて、もしかしたら、私はその中に括られてしまうことを恐れているのかもしれません。
「偽善」の謙虚さについて
「自分は人を救うことができない」と思うことに、虚しさはないのかという疑問を抱かれる方もいらっしゃるかもしれませんね。
ただ、私に関しては、虚しいと思ったことは一度もないのですよね。
確かに、救うことはできないかもしれません。でも、まったく影響を与えていないということもやっぱりありえないと思うからです。
目の前の相手との相互作用、それは直接的なケアもそうでしょうし、話をお聴きすることや、対話を重ねていく中で、その人がその人らしく生きていくことを選択できるようになっていく過程に立ち会うとき、これ以上にうれしいことはありません。
何かを考え、決断し、歩んでいく、それはご本人にしかできないことですが、そこに私という存在が一切何の関与もしていないというのは、逆の意味で言い過ぎかなと。一緒に笑い合えるなら、それが答えの全てだと思っています。
それから、「救えない」というのは「永遠の劣等感」とも言い換えられるかもしれません。だからこそ、学びたい、よりよいアプローチを身に着けたいという向上心に繋がっていますし、できることに誠実でありたい、心を込めたいと願うことができるのですよね。
ところで、SNSで発信を続けていると、ときどき「偽善者」という言葉を投げかけられることがあります(どなたもFF外の知らない人でしたね)。
その通りかもなぁと、いい意味で噛みしめたりします。
だって、SNSもminamoも、全部自分が好きでやっていることですからね。好きでやっているということは、自分のためにやっているということですもの。
たとえば、minamoはお話をしにいらした方が、ふうっと一息つけるようなお時間をご提供したいと思っています。ふうっと一息ついてほしい、というのは私の願いであって、結果お話ししにいらした方が「話してよかった」と思ってくださったとしても、私は自分の願いを叶えているわけです。
そう考えると、相手を想っておこなう行動の多くは、自分のためでもあるという側面を併せ持っている気がしませんか。偽善は行動を伴う、といった点では、相手を想っているその状態よりもずっと進んでいますよね。
だったら、私は偽善者でいいかな、救うことを正義のように振りかざすよりも、とそんなふうに思ったりします。
さいごに
今回は、「救う」と「偽善」にフォーカスをあててお話をしてみました。
独断と偏見、そして個人的な経験が織り交ざっての記事でしたので、全然共感できないよと思った方もいらしたかもしれませんし、そうだよねと頷いてくださった方もいるかもしれません。
何が正解でも不正解でもないテーマですが、あなたはどう感じましたか。
noteに投稿を開始したのが年末だったので、気が付けば半年以上が経過しました。その時々に感じていることを言葉に変換しているだけの記事にも関わらず、時間を割いて読んでくださったり、大切に受け取って下さる方がいらっしゃるのは奇跡みたいなことだなと思っています。本当にありがとうございます。
なかなかの不定期で更新しておりますが、もし「こんなテーマの記事を書いてみてほしい」などというご希望がありましたら、時間はかかるかもしれませんが一生懸命書かせていただきますので、コメント欄でお知らせいただければうれしいです。
それでは、また次回お会いいたしましょうね。