私の家族から聞いた戦争の話
今回は「花見潟墓地」を紹介する予定でしたが、大山口駅列車空襲のことを調べ、記事に書くうちに、数は多くないですが、私も家族や親戚から戦争についての話を聞いていたことを思い出しました。
関連する写真はないのですが、戦争当時の鳥取という地方の町での、庶民の暮らしの中の戦争について書いてみようと思いました。
「飛行機こわい」
父方の祖母には兄と姉がいました。祖母の兄=大伯父は東京商業大学(一橋大学)を出て、東京で実業家になりました。
男女合わせて5人の子どもがいたそうですが、そのうち4番目の子どもは男の子でした(たしか三男)。東京が激しい空襲に襲われるようになった戦争末期、4歳か5歳だったそうです。
空襲警報が鳴り響き、防空壕に逃げ込むたび、「飛行機こわい、飛行機こわい」と泣いていたそうです。
その人は、終戦を迎えることなく、栄養失調で亡くなりました。
母方の祖父の話
「母方の祖父の話」とタイトルにしましたが、祖父から戦争の話を聞いたことはありません。母から聞いた話です。
母方の祖父は、戦時中は今で言う単身赴任で広島高等女学校の先生をしていました。昭和20年の8月は少し早い夏休みを取って、郷里の鳥取県に帰っていました。
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。「広島市が新型爆弾で大きな被害」という連絡を受けた祖父は、大急ぎで広島に向かい、教え子たちの安否を確認するため何日も広島の町を歩き回ったといいます。当然、原子爆弾で焼き尽くされた広島の悲惨な状況も目にしているはずです。
祖父が戦争のことを語らなかったのは、この時も悲惨な思いがあったからなのではないかと思います。
音楽などぜいたくだ
父方の祖父は、戦時中に満州開拓団に入って海を渡り、戦後日本に戻ってこれましたが、ほどなくして亡くなりました。遺影もなかったので、私は祖父の顔を知りません。なので、これは祖母から聞いた話です。
父方の祖父は尋常小学校→国民学校の先生をしていました。ベートーヴェンやモーツァルト、ヨハン・シュトラウスなど、ドイツ&オーストリアのクラシック音楽が好きで、家には何セットものSPレコードがあったそうです。ですが、戦争中は「音楽などぜいたくだ」「こんな曲ではなく、軍歌を聴きなさい」などと周囲からあれこれと言われていたそうです。
やがて祖父は満州開拓団に入り、戦後帰国することが出来ましたが、大陸で結核に蝕まれてしまい、帰国後ほどなくして亡くなりました。
遺品のクラシック音楽のSPレコードは、鳥取大火で燃えてしまったそうです。
戦後すぐの転校生
最後は母から聞いた話です。
母の実家は八頭郡国中村(いまの郡家町)という農村で、空襲の被害は受けていません。
戦後すぐに母の小学校に、一人の男子の転校生が入ってきたそうです。
彼の名字は「東条」。
もちろん東条英機とは何の関係もありません。しかし、彼はその名字のためにすさまじいいじめに遭っていたといいます。
その後、その東条という名字の転校生がどうなったのかは、母は語りませんでした。単に知らなかっただけなのでしょうが、戦後しばらく後ろ指をさされる生活だっただろう「東条」くんが、どんな人生を歩んだのだろうと考えることがあります。
私が家族から聞いた戦争にまつわる話を4つ紹介しました。
「大山口駅列車空襲」の記事で書いたように、鳥取県では大規模な空襲はなかったのですが、地理的に近かったため、広島市への原爆投下の当日に広島にいて原子爆弾で亡くなった方が1205人います。
さらに、「音楽などぜいたくだ」の記事や「東条」という名字のためにいじめに遭った転校生のように、戦争が引き起こした醜い異常心理の話もあります。
これも子どもの頃のことですが、「ナチスドイツがユダヤ人を殺害したのは、世界のためにはよかったよ」と、(戦争当時若者だった)どこかの知らないおじいさんが口にしているのを聞いたことがありました。これなんかも、戦争中のゆがみまくった価値観を戦後数十年たっても無批判に引きずっている事例ですね。
原子爆弾、特攻隊、空襲、人間魚雷、集団自決等はもちろん戦争の一番悲惨な側面です。しかし、人の心を狂わしてしまうのも、戦争の恐ろしい一側面と思います。
次回予告 花見潟墓地
琴浦町の海岸にある約2万基の墓石が建ち並ぶ、日本最大級の自然発生の墓地です。今日10月4日(金)の午後10時からNHK総合「ドキュメント72時間」でも、「お盆の鳥取 海辺の墓地で」として放送されます(再放送あり)。