言えない人の言葉を探す
先週のラジオで、ハライチの岩井が映画『川っぺりムコリッタ』を母親と観に行った話をしていた。
社会のあれこれにうまくはまることができない人たちが同じアパートに住んでいる人同士交流する話らしい。『かもめ食堂』と同じ監督。
岩井は、映画すごく面白かったと話し、「でも、自分はあのアパートに住む人たちの気持ちをわからないかもしれない」と言っていた。理由は、あの人たちは自分の思ったことを言えなかったりするのだが、自分は言ってしまうから。言えてしまうから。
それを聞いて母親が、「当たり前じゃない。私がそうやって育てたんだもん」と返すその会話もすごく面白かった。岩井が子ども時代、動物園で乗りたかったポニーの列に並んでいたら他の子どもに横入りされた時のこと。母は、「文句があるなら言いに行きなさい。行かないなら愛想よく周りに合わせた顔をしろ。そのどっちかだ。」と言ったそうだ。
結果、泣きながらポニーに乗る写真が残っているとのこと笑。
🐴
そのエピソードを聞いて、ほんとにそうだなーと思った。
自分はどうかと考えると、私はそういうこと(目の前で起きる他者の不正)にいち早く気付くくせに言えなくて、結果一人で溜め込んで恨みをつのらせる。大人になった最近は、言えないことに変わりはないが、岩井母が言ったように愛想よく周りに合わせている。本当は心の中でもやもやしながら。知らない人にはもちろん言えないが、特に、知ってる人や友達に対して「言えない」ことが多い。
別に、言わなくてもいいんじゃないかと思っているところがある。
私は察することができるし、とりわけ好きな人と共に過ごしている時の許容度は甘く、範囲は広くなる。
一方で、相手に対して、【この人、自分がしたくないことや嫌だと思っていることをはっきり言うな~】と思うことがある。
そんな時であっても、私のその場における許容範囲(=気分)ならだいたい何でもOKだぜ、という心意気でもって相手の「嫌」を聞き入れる。けど同時に、私がその「嫌」と言われたことを「したい」場合、その気持ちは殺されるんだな、相手の「嫌」を優先するばかりに、ということにも気付き、寂しくなる。
たとえばそれは、夜ごはんを一緒に食べようと相手と落ちあった際、「昨日行ったから今日はファミレス系は嫌だ」と先んずる形で言われるような些末なことであったりはする。
脳内ではこう言っている。
【え? 私はファミレスの安心価格の料理やビールやドリンクバーでだらだらとしゃべっていたいと思っていたとしても?】
実際の私は、とっさのことに言葉を失ってうろたえ、気付いたら、個人のやっている創作系居酒屋とかに決定していた。
創作系居酒屋が悪いっていうわけじゃないが、カウンターのみのその店でおじさん店主と差し向かいのなかわりと常にオーダーを待たれている状態で友達と話せる話って何だろうと思う。ないよ。ないし、一生懸命頼む→そして食べる→おいしいって言う…のエンドレスリピートなだけじゃん。
「嫌だ」と言えばいいんだろうな。「気軽なファミレスがいい」って。言わないから、許容範囲が広大かつ「食」に対してさしたる意志のない人とみなされがちだ。
岩井が「自分はあのアパートに住む人たちの気持ちをわからないかもしれない」と言うのがいいなと思った。
自分にはわからない人がいること、わからない気持ちがあること。
それは大事だし、現在自分が大きな声を持つ状態(ラジオで話せる立場)であることが意識されているのがとてもよかった。
🎢
書きながら思ったが、長らく私は「嫌」と言う人のその「嫌」を優先しなければならないと思ってきたのだった。その人の「嫌」な気持ちを無視したり押し殺させたりして、無理に「嫌」なことを強制させたくない、とずっとずっと思ってきた。マイノリティ保護の意図もあったよ。自分のこともそっち寄りに置いていたということもある。
だから、人から「嫌」と聞くと、「嫌」と言うその人を優先させちゃうんだろうな。それは悪いことではないのだろう。でもそうすると時々苦しい。私の「したい」や「好き」はどこへ行っちゃったんだろうと思う。「したい」や「好き」がマジョリティ側だとして、「嫌がる人」が優先された結果、「無し」にされることもあったかもしれない。
その間の道があるかもしれない。マイノリティとかマジョリティとか分けると変な方向にずれていきそうだ。
私にとって、「嫌」という言葉は強すぎる。自分の心の中だけで言うならともかく、相手がいたら、よっぽどの時(生命にかかわる時)しか言えない。と私は思っている。「言えない」私が言える言葉が、他にあるのかもしれないな。
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