ばあちゃんが選んだ言葉
たとえば1月いっぱいとか、自分が好きなだけお正月だと思っていていいんですよ、って聞いてすごく楽になったけど、いやーでもなーと思い、じゃあ私ってどうしたいんだろうなーということがあんまりわかっていないのがつらいみたいだった。
学校が始まって二週間が過ぎて、三週間目になった。
私は相変わらずボーッとしていて本気が出せていないのだけど、悪くはなかったのだからその日々のことを書きます。
教室で、冬休みの話をした。
話しながら、目の前に居る人たちに久しぶりに会える事実や、会えてうれしいのだと喜んでいる自分に気付き、そのことに自分で感動していた。
なんていうか、単純で純粋な喜びっていう感じで、身体も心もいっせいに喜んでいた。
私が話し始めたからといって、教室中がシーンとなるわけでもなく、私の話を聴いている人も聴いていない人もいて、それはどっちだってよかった。
周囲の喧騒の中で、「たしかに聴いている人がいる」(私のことが好きなのだと思う!)ということを実感できていたことは、話し続ける意欲にもちろんなった。
私が話すのは、簡単にどっと笑えるような話(すべらない話?)でもないのだから、最後まで聴いていたところで聴き手は「・・・・・・。」となることも多い。(ごめんね。)
たとえば、
・久しぶりに会った甥っ子が、私に全然まったく少しもなつかなかった話
・せっかく帰省したものの、実家に居るのがしんどくなって1月3日から一人でサイゼリヤに行った話。そうしたら、正月から一人サイゼリヤな人は他に6人いて(数えた)、もう時代はそうなんだなと明るくなったよ。
・村田沙耶香の小説ばかり読んでいて、心の支えで、もうそれしか全然慰めが無かった話
・電車で倒れた人に遭遇したけど、みんなが助けていたし大丈夫だったからよかったという話
・友達がグルテンフリーになっていて、私は勝手にさみしくなっちゃった話
どれもこれも(いい話なんだけどな…)、「感想」としてどう思っていいのかわからりづらく、生徒たちを困惑させたみたいだった。私は芸人じゃないけど芸人の気分で行っているから、ずっと「すべってる」みたいなのは私にとってもけっこうつらかった。かもしれない。
それでもメゲずにどこに行っても話し続けたのは、この話を聴かせてやろう! とかの意図や意気込みではなく、やっぱり久しぶりに会えて(特別に誰に、というわけでもなく)、対面して、その場所で、共に居られることがただうれしかったからみたいだ。その喜びの「交歓」としてのお話で、私にとっては自分の話をすることがその「表現」であるらしい。(知らなかった。)
1クラスだけ、明らかにムードが違うクラスがあった。
女の子が多くて、反応が鋭く、早い。
その日、私が着て行った犬大集合のブラウスはすぐに教室のあちこちで「かわいい」と言われ、私は流れのままに、それは正月に祖母に会いに行った時にも着たブラウスで、犬大好きな祖母がとても喜んでくれた話をした。その日だって、この話をするために犬大集合ブラウスを着て学校に行ったわけだけど、そんなに熱心に聴いてくれるとは思っていなかったので、私は話しながら途中で恥ずかしくなった。
あまりにも聴いてくれるので、私は、さらに次から次へ話をした。
緊張と、喜びと、話をする興奮と、マスクで息ができないことによるドキドキで酸欠になりながら話した。
こんなに聴いていてもらえることってあったかな? と思いながら、ただ静かにしているというだけでなく、みんながこっちを見て聴いているということを全身で感じていた。
私の話を聴きたくて集まってきたのでない限り、こんなことは絶対に起こらないので(なので、学校では起こらない)、これはすごいことだしありがたいことだと感じた。
そして原因を考えた。たぶん、年末の最後の授業で、「その朝電車で起きた出来事についての面白い話」をしたからかな~と思った。(これは、まぬけな私の、まさしく「すべらない話」。)
その時、みんなはどっと笑ったのだ。
だから、その時のことが、今も響いているのかな。
でもたぶん、それだけでなく何でもつながっているのだろうという気がする。
今初めて出会ったわけじゃないから、私が行き始めた8月からこれまでのことが、きっと見えない形で彼らと私をつなげているのだろう。
その日は終わってからもじんわりと嬉しく、一人でしみじみと思い返していたら、あ、いちばんいいところを話し忘れてきちゃった!
☆彡☆彡☆彡
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