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「姉さんがいてよかった」から始まる朝


私が帰省して2日間、日にちを合わせて、妹も子ども二人を連れて一緒に滞在した。

二歳児と、6ヶ月の赤ちゃん。

もちろんかわいい。めちゃくちゃかわいい。

二人とも丸々としていて健やかだ。

人間って本来こうなのかもしれない。大切にされて、そのことを享受して当然のこととして幸せに生きたらこうなるのかも、という体型。

見ているだけで幸せで、つい触りたくなるほっぺ。

 

赤ちゃんや、赤ちゃんに近い子どもがいると、生活は全部それ中心になる。

出掛けるのも、食べる時も、用意や準備が必要だから通常の何倍も時間がかかる。

気遣いや実際の労力も、大人だけで過ごす場合と比べて格段に上で、正直なところとても消耗する。

同時に、自分たちの楽しみについても、我慢したり制限しないで行うということを、われわれは口に出すでもないが決めているふしがあるので必死だ。
意地かもしれない。
でも、自分は自分だ。

2日目の夜、スマホのネットニュースを開き、無為にスクロールしていてふとこんな時間は久しぶりだなと思った。

一人暮らしだと、毎晩だいたい布団の中で意味もなくスマホを触っている。本当に意味はない。すごくしたいというわけでもない。「至福」というわけでもない。目に入ってくる情報に刺激を受け、そうでなかったら思わなかったことを思ったり、呼び起こされたりすることもある。「スマホ」が私に合っている手段なのかどうかは永遠の謎だ。麻薬みたいな?

目の前に子どもたちがいて(とは言え、大人3人態勢という手厚さや、私はその中でも‟3番手”であるという気安さよ)、それなりにしたいことがあり(お話など)、おいしいごはんを食べてゆっくり眠るという(最低限の)希望を無事に叶える……という世界では、意味なくスマホを触るという時間も欲求もなかった。

それはそれで、修行僧みたいに健全でシンプルでストレスがないなとは思ったが、自分の頭がぼんやりしすぎているとも感じた。

特別な外出をするわけでもなかったから服は同じでよかったし、ただ「今夜何を食べるか?」だけがほぼ主要な関心事だった。(それだってすぐに何でもよくなった。)

もう少し意思を持ちたいとか、この数日間を立体的に過ごしたいとか、クリエイティブにとか、思ってはみたけどあまり気が向かなかった。

やっぱりぼんやりしているな、と思った。

クリスマスが終わり、しかし今月が終わるまではあと何日かあって、終わるようで終わらない感じがモラトリアムで落ち着かないのかもしれなかった。

友達いわく、「待ち時間」。

たぶん、私はエネルギーがあって持て余し気味で、ぼんやり環境の現状に対する物足りなさや、それに甘んじて本当にぼんやりしている自分に対して、「不足」みたいなものをおぼえているんだろうな。ぼんやりに慣れてない。休むのって難しい。

 

人にそんなことを話したら、実家でぼんやりしているのはいいことだね。一人暮らしは自由で楽だけど、どこか気が張っているんだと思う。と返してくれて、私はようやく納得と安心。

そうかー。一人暮らしのひりひりかん。

侵入者はいないよね? とか、鍵かけたかな? とか、ゴミ出しを逃せないとか、もっとずっと単純なところでは、寝て、起きなくては、とかいうことに、思いのほか気張っているのかもしれなかった。

自分で自分の命を持続させることと孤独。そういう(重大な)ミッションと命題に、案外さらされているのかもしれない。

 

孤独は愛すべきものだけど、同じぐらい深刻に追い詰めてもくる。

実家のぼんやり感を引きずって年を越し、置いて行かれる気分で1月に入って、完全に置いて行かれながら日を過ごし、私だけうまく調子に乗れないな……なんかしんどい……旧暦のお正月が明けるまで、というのがここ数年の傾向だった。

だから、この時期に1年の緊張感をほどいて安心してぼんやりし、「終わり」の寂しさを味わいながら、季節のもたらすしんどさを敏感に察知して味わうのは当たり前のことで、それは私の性質とか弱さとか怠惰とかのためではないのだと思ってよくて、私だけ辛いっていうわけでもないことを知りながら年を越す……っていうのでいいんだな。

誰かがそう言ってくれたことにして、ぼんやりやってみようかな。

 

今朝起きてぼんやりしていたら、隣の隣の布団で寝ていた妹が、「姉さんがいてよかった」と言った。

私たちの間で寝ていた2歳児は、昨夜、大胆な寝返りをぐるんぐるんと繰り返し、最終的に私の方に転がる道を選択したうえに頭から布団に突っ込んできた。人の身体の柔らかい部分に手を差し込んで寝るのが気持ち良いらしく、もぞもぞと場所を探して、私の曲げた腕の隙間を見つけていた。
私は、子どもが安心するように手をつないで、その手がものすごく小さいことにずっと驚いていた。

妹は、反対側に寝かせていた赤ちゃんのぐずつく声に対応し続けた夜だったから、2歳児を引き受けた私に感謝していたのだろう。

私は、朝のその日の始まりの一言目に「あなたがいてよかった」はすごいでしょと思った。家族にそういうことが言えるのは本当にすごい。嬉しくない人はいないし、単純に、言葉だけ取り出して、自分の存在が認められる思い。
妹は時々こういうことを言う。
そして、私は、こうやって言葉は惜しまずに言えばいいのだと学ぶ。

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