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言葉が生まれるところ

あとは自由に、好きなようにやったらいいみたいだった。

1(私):40(生徒)は多いよやっぱりとか、50分授業は長いのよ寝て起きても国語なのよとか、4回/週 の授業数はお互い飽きるってとか、いろいろ思っていたのだった。
一生懸命授業しなきゃなんか悪いし、教科書に書いてある文章はあちこち難しいことだらけだった。
それで、一生懸命授業していた。
意識が、「一生懸命授業」にあるので、手を抜いたり遊んだりすることができないループに入ってしまい、音楽を流す金曜日以外はまっすぐ授業を進行していた。
言いたい雑談も日々のつぶやきも思い浮かばず、と言うよりも、私の抱える日常は、いざ話題にしてみようとするとどれも深刻で、「これなら言ってもいいかも」と判断できるネタがなく、しまいには、授業前の雑談すらも私一人で考案して奮闘しなければならないのかよ的イラ立ちが理不尽に浮かぶに至ったので、別にすごくやりたいわけでもないのにすぐに授業を始めていた。

自分を開示してもいいと思う時期もあるのだが、今はなぜか、私は何もオープンにしたくないようだった。

別に話したくないけど授業をガツガツと進めたいわけでもないのにやることがないからただ粛々と進行していて、生徒のつまらなそうにしていた顔顔顔を思い出し、家で落ち込む。

よかったことよりも悪かったことの方が響き、孤独にさいなまれる。

私は自分の「よさ」を十分に知っているのに、それを実感することができない。
自分ばかりが自分に「いい」と言い続けても、それには限度があって、枯渇してしまう。
自分に加えて、他の誰かにも、「あなたはとてもいいよ」ってことを常に言っていてもらわなければいけないのだと思う。


そんな折、不思議な整骨院の先生の所へ行った。
定期健診、もしくは経過確認のつもりだった。
最近は、身体と心がずいぶんつながって以前よりずっと楽になったし、ほんのささいな違和感も「痛み」として感知するほど感覚が研ぎ澄まされていた。
それもあって、私は自分の腰や首が痛いということを頻繁に察知するのだが、「痛み」は身体が変わるチャンスだから、悪いことではないよということも教わっていた。

その日は、先生に触れられたところ全部に違和感があって、痛いとかほんの少しずれているとか、傾いてるとかいうことがすべてわかった。
先生はそこしか触っていなくて、つまり全部をキャッチしていた。
先生は、私が「わかっている」ことも知っていて、私の感覚がどんどん鋭くなっていることを喜んでいた。

「交感神経とうまく交信できてるね」と言われたけど実感はなく、それよりも私は先生とも交信できているという実感を得て嬉しかった。
先生は、「『腰が痛くなっても、1日ぐらいで治る』って言ってたけど、特別に気を付けてることはある?」と聞いた。
私「ない…かも」
先生「痛みを感知することはまずは大切だけど、身体が変わり始めたら、痛みを手放すことも大事。脳から、『腰が痛い』っていう感覚を離すこと。この部屋の中では、触ったり動かしたりして一緒に診ていくけど、ここを出たらもう忘れて。普通に生活してね」

先生との不思議な会話は大体いつもこんな感じだ。わかるようなわからないような、こうして記録して残そうとすれば、するりと抜けていってしまう。

先生「今年、どうだった?」
私 「アハハ! よかったと思う~」
先生「そうだね~。今年が全部身体に表れてるよね。『先生』の仕事が本当に向いてるんだと思う。ぴったりなんじゃないかなあ。自分でもそう思うでしょう? 今の環境がすごくいいみたい。前のところは合ってなかったんじゃないかなあ。今はすごくいいよ」
私 「えー! 別にそんなによくもないけどなー。しんどいなーってすごく思う日もあるし」
先生「でも、身体は気に入ってるみたい」

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