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3ヶ月日記


1月が終わる。

なぜかわからないがすごくホッとしている。

11月、12月、1月、友達と一緒に(ほぼ)毎日日記を書いた。
交換とか返信とかでもなく、それぞれにその月のテーマを決めて書いていった。

マイ3ヶ月振り返りのはじまりはじまり~~


11月…「その日の洋服」



11月の「洋服」は、途中でつらくなっていった。
描写したくなる服を着ている日もあるが別にな日もあって、洋服しばりしんどーって、勝手に決めて勝手に思っていた。

朝目が覚めて、本当はそんな気分じゃないが「日記があるんだから」と洋服を決め起きられた日もあった。しかし、半分は義務で、半分以上はこんなの誰が知りたいんだ一体というやさぐれ?笑 が勝った。

まだ日記に慣れていなかったからかもしれない。

あと、「服」の持つ、そういう性質にけっこうやられた…のかも? 自意識にまつわる部分が勝手に削られた…のかも?
きっと、振り返るのはまだ早いのだろう。

ちなみに今日は深紅のざっくりしたカーディガンです。アンド、肌触りのいいタートルネックインナー深色ベージュ。
「オンライン授業」になったので、洋服で張り切る気分は薄れ、細かい部分のおしゃれよりもざっくりかわいくて自分が好きな服を着て行くようになった。クッキーモンスターみたいな水色モフモフセーターとか。教室に自分しかいないから、生徒による正気とは思えないエアコン温度設定にさらされず暑くないのもいい。
今度、でっかい女の子達が犬とショッピングしているヒョウ柄のカットソーが着たいんだけどちょっとだけ迷っている。着る!

🐅

12月…「買ったもの」


だんだん日記に慣れてきた。

値段をよく忘れるのだが、そのくせ買ったこと自体についてはその日一回はくよくよする。
「買うこと」に罪悪感がある。
そんな話を友達としたことがあるし、『ブランチライン』(池辺葵)という漫画にも出てくる。アパレルで働くニイちゃんも「服を買うことへの罪悪感」を知っていると言ってた。「だからなおさら懸命に生きようと思う」って。
オシャレな洋服は、「(究極的には)無くてもいいもの」、「無駄なもの」、「ぜいたく品」と思われているからだと思う。
買うことに対する「罪悪感」は、自分の収入や将来への漠然とした不安、が原因なのだろうな。

でも、それって私のせいじゃないよなと強気に思う。

買ったものは必ず使っている。気に入ってるから! けっこうこれは断言できる。なのに、瞬発で必須の罪悪感。これはもう、脳がそう思うように操作されているよな。もっと働いて稼がなきゃ、お金があることが最上なんだから、というふうに思わされている。そういうふうに社会が迫ってる。

日記で値段を記録したけど、一方で私は自分で価値を考えたいと思う。付けられた値段や、「お金」を基準にしたくない。いくつかの選択肢がある時、「値段」は大きな要素ではあるけど常にそれが私の選択を決定するものであってはいやだと思う。余裕がある時ばかりではないけど。

*JRでも阪神でも阪急でも行けるホールに、阪神電車で行った。理由は、降りたら川沿いをまっすぐ歩いて行けそうだったから! (すでに、迷うと困る時間だったから! とも言う!)
それは、山と海をつなぐように流れている川で、私は海を背に、山に向かって川に沿って歩いていった。
歩きながらずっと感動していた。だから私は実家を出てこの街に来たのだし、今も帰らずにいるんだなー! と思った。
着いたら、ホールの幕が今歩いてきた景色すぎて感激で泣!
阪神で行ったから見えたのだよ🚃

この山が好き


これを幕にする?ふあー!


1月…「金言(人や自分の忘れたくない言葉)」

これが一番萌えた。毎日張り切った。
それは完全に私が言葉を食べて生きているからだと思った。言葉の比重がたぶん異常値。

(書いていないこともあります、モチロン!)

同時に、勝手に物語を作ってるなーということも、自分のことながらよく感じた。

「金言」が「伏線」であったかのように勝手に出来事がつながっていくことは頻繁に起きたし、なんかそれっぽいよさげなものに仕上がることもあった。
「書く」ことは何かを決めてしまうことと同じだとも感じた。私が書いたことでない部分や、その余地まで存在を残しておく書き方ってどんなふうだろうとも思う。書いたことによって自分は満足しているのだが、同時に、多くのものを含んでいたはずの景色が、味気なく、単純なものになってしまう。本当は、「私が書いたこと」でないことが書きたかった。

それで、映画『偶然と想像』について書かれたよい解説を思い出した。

2話目の『扉は開けたままで』。

教授が、ある学生に対して言った、「現実を曖昧なままに受け取ることができる才能」というセリフの解説:

‟現実の出来事を、これまでの常識や社会の価値観に沿って単純化しないということだ。”

それから、濱口監督の映画作りについて:

‟(俳優たちは、)台本を曖昧なままに受け取るというプロセスを踏むことで、自分の中にある常識や価値観、世間的なものの考えとは違った領域で、その内容をなぞることになる。ものごとが〝凡なるもの、″に墜落する前に救い出す……つまり、濱口監督の作品づくりには、日常的な題材であっても、ありきたりで記号的な表現から可能な限り自由になろうという強い意志が存在する”


少し前から、「断片」をつなぎ合わせて勝手に「物語」にしてしまうことについて考えていた。

「ありのまま」、「曖昧なまま」ってどんなふうだろう。
ぎこちなくて、もしかしたら少し気持ち悪い感じかもしれない(濱口監督の映画みたいに)。

次の日記で挑戦してみたいことかも。


反対だけど、似ているかもしれない話。

絵を描いて歌を歌う友達が、「ありのままというか、少しカッコつけちゃうんです。本当は『お金がない』が理由なんだけど、『自分に負荷をかけたくて、片道分の電車賃だけで路上ライブに行った』って言うとか。なんかそうしたくなっちゃう」と言っていて、すごく共感した。

私も、「そのまま」すぎると暗くなるから、面白くなるように書いたりする。書いているうちに、そっちが自分なのかもと思えるのもいい。少し「カッコつける」ことは全然悪くない。

これらすべて1月のこと。濃厚―――っ!

3ヶ月、ほぼ毎日書けたことにびっくりしている。こんなに日々書けたのは人生で初めてのこと。
かよちゃんに感謝。それから、加わってくれた友達、読んでくれている人にも。

自分が書いていなくても友達が書いているのが嬉しい。「並走」が本当に本当に嬉しい。
友達が書いていると、私もと思う。頑張りたいと(少し)力を振り絞る。書くことについては、頑張ることが私には大事なのだと思う。

友達の文章を読んで、友達が私と会っていない時にはどうやって生きているのか想像することができる(本当に存在するんだ!)。
書いているということは、内容はどうであってもただ明るくて、それは生きている明るさだと思う。

気配を感じられること
誰かにたしかに話しかけていること
もしかしたら返事はいらないのかもしれない

そういう初めてのことをたくさん味わっている。

明日は、「見境いのない自分の話」を書きます。

ピース!

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