乗り換えの駅で全力で走ることについて2023/4/30
友達に『自分が支援の「対象外」であることを実感する時ってある? 』と聞かれた。
政府が、少子化対策として子のいる人たちに対して、支援や優遇などの政策を立案していることや、社会としても支援や声をあげることが当たり前になってきた風潮がある。
私は結婚していなくて子どもがいない。友達は結婚していて子どもはいない。
友達の問いは、自分が支援の対象に当たらないことで、社会や行政に〈包摂されていると実感できない〉か? 言い換えると、社会や行政に〈支えられていないと感じる〉かどうか?ということだと思う。
問われた瞬間、めちゃくちゃいい問いだな~と感じて興奮した。
私は社会や行政に支えられている実感はなく、そもそも頼っていいと思ったこともなかった。それで、自分が何かの支援の対象になることなど想像もしていないし、もしかしたら期待もしていないかもしれなかった。
でも、子がいる人たちに対して支援を手厚くすることは必要なのだろうし、それを社会全体で、あるいは社会のなかの一人として要求していくことは大事なことだと考える。そのように考えることと、私が子を持っているかどうかは私にとっては関係がない気がする。当事者ではないが必要だと思っている。妹や友達に子がいるから、たまにではあるけど当事者だと思うことも、影響しているかもしれないが、それは想像しやすくなっただけで、やっぱり普通に支援は必要だと思うだろう。この国はそれが足りないと怒ることも、自分はすると思う。
じゃあ、「支援の対象」とはならなかったことを理由に、自分は除外されている、自分にも支援をよこせと要求することについてどう思うかというと、それはやっぱり変で、自分には合わない考えのような気がする。それは、女性専用車両の存在に反目して平等を求め、『男性専用車両』を要求する人たちと同じで、何かがずれている気がする。
私は子育て支援の対象ではないが、不平等だとは思わないし、しかしだからと言って自分が何かの支援の対象になるかもしれないことや、それをもらうのは当然だということもあまり思えない。それぐらい、一人でやっていくことに慣らされてしまった。たとえ厳しくても。自己責任という言葉は世界一嫌いなのにそうなってしまっているのだろうか?
子育て支援の必要性を社会や私は大きな声で叫ぶけれども、実際に目の前で身軽な自分よりも子連れの人が優先されたとしたら私はそれを優しく見送れるかどうかと言うとそれも疑問だ。
一週間に一度、ヨガに行くために電車でけっこうな距離を移動する。乗り換えで利用するターミナル駅のホームは、どの時間帯も混雑している。絶対に座りたい思いで目的のホームに向かって私は毎度走る。身軽なのでいち早く到着し、目当ての特急が来るまで列の先頭に立つことに成功することが多い。特急を待ちながら、ホームに子連れの人や、ベビーカーを押す人が徐々に到着するのが目に入る。この人たちは席に座れない気がする。あるいは、優先座席ならいけるかもしれない。告白すると、こういう時、率先して譲ったことも譲ろうと思ったこともない。30分近い時間、立って乗るのは私もしんどい。
じゃあ例えばと考える。子連れ優先レーンがあったとしたら?
子連れじゃない人は、普通のレーンに並ぶ。
子連れの人は急がなくても空いている子連れ優先レーンに行くことができる。
もしそうだとしたら、私はどう思うだろうか?
やはり、ずるいなと思うかもしれない。
でも、一旦実施されたら案外そんなものかと思い、しだいに子連れ優先レーンの存在が当たり前だと思うのかもしれない。
やり始めたら案外そんなものかと思う、というのは我ながらぼんやりしているが執着がなくて、いいことのような気がする。
身軽な人と身重な人が同じ条件であるのは、やはり無理があるようにも思う。本当は、立場をこえて譲り合えたらいちばんいいんだろうけど、なかなかその余裕が持てない。
身軽な人もやさしくしてもらいたい時があるのだが、あまりその機会はないので、それなら自分が自分のことを守らなければ仕方がない、という思考から、必死にホームに向かって走ってしまうのだと思う。
マスク社会になって、より『自分は自分』、『他人は他人』の意識が増したから、必死感や自分が一人であることへの実感が強くなった。そのことは少ししんどい。
自分が支援の対象外だということをことさらに意識していないことは、そんなに悪くないことのような気もする。
ただし、自分も支援の対象になれるし、助けてもらえるとはもう少し思っていたい。
どうしたらそう思えるのかはわからない。一人では思えないと思う。どうしたらいいのかな?
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