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洗濯とストーブ

こんにちは。
すっかり冬に向かっていますね。
先週の妙な温かさ(暑さ)は、気持ち悪い感じもしたけど、余裕ができて助かりました。
「小春日和です」ってラジオでマチャオか誰かが言っていたことを駅に着いて思い出して実感した時、ふいに、既に冬を終えて春にやって来たかのような、それも暑い寄りの春だ、という錯覚が起こりました。それで、そうだったらよかったのにと思ったのかというとそうではなく、厳しい冬を超えたはずなのに何も変わらずに自分が今ここに居ること(全然引っ越してない!)とか、そしてやっぱり冬を経験していないのにここに来ちゃったことがたまらなく残念だと思ったようなのでした。

先週も今週も、日曜日は出掛けずに「アトリエ畑の隣」にいて、洗濯をしてぼーっとしていた。
両方とも、翌日に友達がアトリエを使う予定になっていて、室内中に干しまくっている洗濯物が全部完全に乾いて、和室の引き出しに収納するというところまでを今日一日で終えることができるのかどうか不安に駆られたのだった。夏が終わってから、洗濯物は一気に乾かなくなり、夕方になっても干した時のままの水分量を保っているのには、困るを通り越して呆れて苛立っているのだけど、大体は次の洗濯までそっくりそのままぶらさげておく生活スタイルで長年やってきたので(タオル以外)、実はそんなに困らないのだった。
ただし、翌日、人が来るとなれば話は別だ。その上、毎回4枚か5枚ずつ、夏物を忍ばせていて、最近は晩夏に着ていたしっかりぶ厚目の生地のロングスカートやサルエルパンツを洗っていたので、室内に一日ただぶら下げておくだけではずいぶん心もとなかった。
とは言え、洗濯のために出掛けられないなんて許せないと、家にいたくない病の私は思ったし、私が洗濯物と一緒に家に居たところでいったい何が? とも思ったけど、「そのせいで我慢して家にいる」ってならない程度に、何となく家に居てみようと思ってそれは始まった。


仕舞われずに出しっぱなしの扇風機をONして、ぶ厚い生地シリーズの服に向けて風を吹かせた。結局のところは「風」が乾かしているのだという、これまでの人生の中でどこかで聞いて自分でも何回も実践してきたはずのことを試してみる。寒い。私はその射程範囲からはもちろん外れたところに居るのだが、わずかに風は流れてくるよね。そこで、電気ストーブを点けた。あ、それならタオルとかシャツとか短いものシリーズを机に架けたら、ストーブはすぐさま私もろともすべてを情熱的に照らし出した。
あ、これはすばらしいね。私は机で本を読みながら、時々、タオルやシャツをまるで手焼きせんべいを裏返すごとき要領でひっくり返したり、前後を入れ代えたりする。そもそも、私だけを直で照らすには熱すぎるワット数なので、こうして全員でストーブに当たっているのは本当はちょうどいいのだ。短いもの達はあっという間に乾いたので洗濯ばさみから外して、空いた場所に靴下とか下着とかをぶらさげて、また手焼きせんべいだ。風に吹かれまくっている極寒のぶ厚い生地シリーズの様子を見に行くと、一部が何となく乾いてきた気がする。これなら確実に絶対に乾かすことができる。見通しが立って安心し、それなら扇風機だけ点けっぱなしにでもして出掛けてもよかったのかもしれないけど、そんなことをしながらぼんやりと気付いたのは、私は今ここでこうして居ることが全然嫌じゃないのだなあということだった。洗濯物にとらわれて、自分の自由が奪われたと感じそうだったのに、別に大丈夫だった。未来が始まりつつあるこの時代に、付きっ切りで地道に洗濯物をひっくり返したり、位置を変えたり、様子を見たり、心配したり安堵したり、そんなことまだやってる人なんて他にいなさそうだったけど、何かまあいいやと思った。効率や賢い方法を重んじたいタイプで、とりわけ洗濯は嫌いで(嫌いだけど)、洗ってきれいになって乾いて元の状態に戻るなんて当たり前で何の感動もなく、そんなところに自分の時間や労力や思考や工夫をもっていかれたくないと常々思っていた(思っているよ)はずなのに、何だろうね~これは、と思う。
手焼きせんべいであり、餅を焼く作業に似ているのかもしれない。


はるか昔の、今はもう無い極寒の実家では、冬になると石油ストーブの上で母が時々餅を焼いてくれた。
寒すぎる家は、ストーブを点けたその部屋しか暖かくなく、子ども時代の私や妹がそれ以上近づかないようにと立てられた赤い柵がいつまでもそのまま使われていて、私や妹はそこに背中やお尻をぴったりくっつけて貼りついて動かず、テレビを観たり新聞を読んだりしていた。
餅は、夕方や土曜日の昼に母が焼いてくれていたかもしれない。
母は、ふつうのときと不機嫌が半分半分で、どっちかと言うと不機嫌な印象が強い。
暗くて寒い家と、家事が嫌だったんだと思う。外のような気温の玄関で灯油を入れたりするのも嫌だったんだと思う。そりゃあ嫌だろうと思う。
母は、家に一人になってからどんどん物を捨て出して、ある日、石油ストーブも捨てられてしまった。
代わりに、私の石油ファンヒーターを使っていたけど、それでは餅は焼けないし、その上にやかんを置くこともできないな~ということは思ったけど別に言わなかった。

2週間前の土曜日に、友達がお客さんといるところに私が帰宅して、お客さんが帰った後、友達が灯油を買いに行ってくれた。そして、点火式だ! と言ってストーブを点けて二人で見守った。
灯油のにおいや大きくなっていく火が懐かしく、なんだか泣きそうになった。
そういえば、「アトリエ畑の隣」に初めて来たのが去年の大晦日で、その時、このストーブの上で豆の入った餅が焼かれていて、もらって食べたのだった。
それが、一年後にこうしているなんて不思議で、信じられないような、でも当たり前のことのような気持ちで部屋の中をぐるぐる見回した。
ストーブの上には、その日友達が買ってきた小さいやかんが置かれ、お湯が沸いていた。元からあったやかんは取っ手の一つがちぎれていて、使えるしもう慣れたし全然平気だけど、新しいのは便利そうで嬉しかった。
そうして、「やっぱり火はいいね」と言って、ストーブを見ながら久しぶりにゆっくり話した。

友達が帰ってからも、消すのが惜しくて、少しの間ストーブを点けたままにしてぼーっとした。
ストーブがあれば大丈夫な気がした。

翌朝、寒かったからストーブを点けた。すぐにいつもの灯油のにおいがして、そのことは暖かさ以上に私の心を慰めた。
それから、朝や夕方、寒かったらためらわずにストーブを点けると、それだけでずいぶん気持ちが落ち着き、寂しさが薄れるのだ。それはとてもとても不思議な現象。

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「ててて日記」を読むと、もしかしたら、一人だけど一人じゃないなあって思えるかもしれないです。 ほんの時々、これは知らせたいぜひ! っていうことを、急に書いたりします。 最近は、学校の話が多いです。 好きなのかも。 あとは、家族の話、生き方についてや悩んでいること…。 購読したいけどシステム的に(?)難しいなどの方はお知らせください~。

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1か月前から「アトリエ畑のとなり」で暮らし始めました。都会のマンションから畑のとなりの古い家へ、理由と縁あって一人お引っ越し。鳥や蝉や雨の…

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