個人的に、共に生きるには
このごろ、「個人的に生きる」ことについて考えている。
授業でやった評論で、「日本はいまだ『個人』を獲得していないし、『個性』も存在していない。『個人の尊厳』が守られていないのだから、『人権』が保障されているともいいがたい」と読んだから気になっているのかもしれない。
テレビ番組で、中谷美紀が、現在生活しているドイツで運転免許を取ったという話をしていた。移住当初、ドイツ人の夫に、「僕は君の運転手じゃない。自立していない女性と一緒に居ることはできない」と言われてしまったから、と言っていて、私は、これか……これが、かの西欧の言うところの「個人を持つ」ということか、とびっくりしたのだった。
交通事情など、日本とは環境が全く違う、ということはあるのかもしれないが、外国に来たばかりの、しかも免許を持っていない相手に、「自分で運転して」って言うなんてすごい! と思う。
でも、それは冷たいとか、薄情とかいうことでもなさそうなのもなんだかわかった。わかってしまった。
一生懸命授業したからな……。
きっと、たとえ街であっても日本のような交通網が敷かれているわけでもなく、自分で運転しないとどこへも行けないような土地の広大さなのかもしれない。
いや、そうであってもそうでなくても、「自分のことは自分でする」、「自分が行きたいところへは自分で行く」というのが西欧の人々の普通の発想であり、感覚なのだろう。
これが「個人」か~はーっ(嘆息)と思った。
日本で生まれ育った私は、本当の意味での「個人」は体験しておらず、染みついてもいないので、感覚としてわかっていないところがあるのだと思う。
行きたいところには自分で行くという「個人」が、時々一緒に集まって生きて作っていくのが「社会」。なのらしい。西欧では。
前提として、「個人」を生きることができていないと、たとえ人と一緒に居ても「依存」になってしまうのかもしれない。
私は「依存」そのものも、それによって自分と相手が溶けあって境界線が無くなり、「自分」を無くしてしまうことになるのもとても怖い。
誰かと一緒に生きていきながら、「個人」であることなんてできるのだろうか。
してみたい。でも、可能なのかな???
何年か前に壇蜜さんが結婚した時、「一人で生きられないから結婚するのではなく、自分一人でも生きられる自信がついたから誰かと一緒に居られるようになった」と言っていた。
その時はあまりよくわからなかったけど、これってそれだなーって、今思う。
(ちなみに、「結婚」について話した時、友達も、心に残っている言葉としてこれを挙げていた。)
相手や誰かを呑み込んだり、依存させたりしたりするのではなく、まったく溶け合ってしまうのでもなく、それぞれ自分でありながら一緒に居ること。とは?
ちなみに、「一人でも生きられる」とは、経済的にも精神的にも、という意味らしい。
とても冷静で、突き詰めきってるなーと思う。
私はどうかな。
でも、そうでないと、きっとわけがわからなくなってつらくなるだろう。
「自分」を失ったり、なくしてしまうのは、わけがわからなくなることのような気がする。
「自分」を持ちながら、誰かと一緒に居るって、本当にできるのかな? 私に?
できてみたいなーと思う。
どうすることがそれなのか、考えている。
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