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最近とまどっていること


「オリンピックを取るか、国民の命を取るか、どっちですか?」
と国会で問われ、官僚か首相が答えに窮していた姿について、
太田光が、「それは究極の問いで、それを問われたら自分も答えられないと思う。それだと、オリンピックを取った人は人の命を軽んじているという前提になっちゃうし、そうなると選手もそう、ということになってしまう。もう少し柔らかく」
と言ったという記事をネットで見た。

私はそのことをとても普通の気分で読んだ。「柔らかく」って、太田光っぽくていい表現だな、この人のこういうところがやっぱり好きだなと思って。
それで、ふと、私は変わったのかもしれないと思った。

ずっと前だったら、私は、元からの「オリンピックには断固反対」という意志に、
「この事態にも及んでなお開催するとかありえない」というのが乗っかって、
「オリンピックを取るか、国民の命を取るか、どっちですか?」と迫ったことについて「いいね!」を押していた気がする。
少し前だったら、「いいね!」は押さなくても(そもそも、「いいね!」を押すような環境から離れた)、
「柔らかく」って言える太田光をまぶしく、遠く感じていたと思う。私は、それはまだ言えないというか、そこまでの希望を持っていいのかどうかわからなかった。
今は、「オリンピックには断固反対」ということには変わらないけど、
もう、「オリンピックを取るか、国民の命を取るか、どっちですか?」
という追及自体がしんどいと思った。
それが「残酷な」問いであることがわかるし、そう迫ることと、この事態にもかかわらず「オリンピックを推進する人」は記号にしちゃえば正反対なのに、同じ駒に見えて怖いような気がした。
時が変われば、今「白」と言っている人は簡単に「黒」と言い、今と同じ熱量でその正しさを主張するのではないかと感じた。
本当はきっと、もっと間にいろんな事情とか理由とか物語とかがあり、そういうものがその人を作ったり支えたりしているのだろうと思う。簡単に、「オリンピック賛成派」と「反対派」だけに分けることができないものがいろいろ。
私たちはきっと、そういうことをもっと話したりすることができるのだろうと思う。
だから、究極の問いで相手をやっつけることよりも、自分もその中に入れた交渉みたいなことが、きっといるんだろうなあ。
世界は必ずしも「10かゼロか」ではないのだということを、私は何となく知ったということなのかもしれない。
意見が違う人とも共にやっていくことができるのではないかと感じ始めたからかもしれない。
わからないけど。

あまり怒らない自分にとまどってもいて、そんなんでいいのか? と思いつつ、これは非常に楽だな~と実感しているのが正直なところで、そんなんでいいのか?! と思っている。

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