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再会と『チ。』について2024/11/30
タイの友達が来日し、新大阪駅のカフェで会うことになった。
愛知県のホストファミリーに会いに、三日間の日程で来たのだという。
われわれが大学院で出会った時、友達は大学の門の目の前の寮に住んでいた。
ホームステイしていたことがあるとは知らなかった。もしくは知っていたけど忘れてしまったのかもしれない。私も時々遊びに行ったあの寮で、留学生仲間たちと住んでいた印象が強い。
「ホストファミリーに会うのは10年以上ぶりで、あなたと会うのは5年以上じゃない?!」と言っていたが、正確には8年ぶりだった。あとでスマホの昔の写真をたどってみた。8年前に友達が福岡に出張で来たとき、大阪から新幹線で会いに行ったのが最後だった。
「なんでこんなにも長い間会ってなかったんだろう?」と聞いたら、「……コロナじゃない?!」と言われて、納得したような、それだけでもないような気もした。
「元気?」と「誕生日おめでとう」を、1年の間に2回か3回、必ず連絡をくれるのはいつも友達の方で、私はそれにかろうじて返すぐらいなのだが、この友人関係が続いているのは完全にこの人のおかげだと、会いながらはっきりわかった。
ホストファミリーとも、他の友達とも、そうして自分から連絡をしているのだろう。そうしないと、人間の関係は簡単に切れてしまう。自分の努力っていうのが必要なんだなと思うのは、その時々でぶちぶち関係が切れてきてしまったからだ。気付けばいつもその時の二人ぐらいとしか居ない。それは大事で必要な二人だが、あまりに限定的で依存度が高いともいえる。
もしくは私は大体一人だ!
🧘♀️
この人と会うのが8年ぶりなら、私がヨガをし始めて8年になるのか、と思った。
8年前に福岡で(そういえばその前日、オバマが広島の原爆資料館に来たのだった、友達が新聞を買ってオバマのスピーチの話をしていた気がする。私はそのスピーチがすごく気に入らなかった気がする!!)、古い商店街や東急ハンズをうろうろ歩いた。
友達は商店街の判子屋で判子のインクを買っていた。こういう店がなくなると困るからね、と言って。
私は東急ハンズで日よけの青い帽子を買い、今も使っている。
友達はお気に入りのサラサのペンを買っていたけど必要な本数しか買わなくて、なくなったらまた来るからいい、と言っていた。いちいち感動するエピソードだな。
いろんな道を歩きながら、私は当時、疲れると固まってしんどくなり始めた肩や腰のことを相談して、友達がやっていたヨガの話をしてもらった。
友達は、帰国してタイからグーグルアースでヨガ教室を探し、「ここに通いなさい」と神戸の教室を示した。
私はそれからヨガを始めて、今も通っている。
今の家から神戸は遠いけど、同じヨガ教室に通ってることを話すと、友達は「自分でやったら?」と言う。
そして、「1年前に自分の店を作った」と言って写真を見せてくれた。
壁にロープも複数取り付けてある。立派なヨガのスタジオだ。
驚いて、「店っていうか、スタジオじゃん!」と私が言うと、「スタジオ! そんなんじゃない! 小屋!」と言う。
「スタジオ」っていう呼び方が嫌なのかと思ったら違った。謙遜だった。「小屋」って。完璧な日本語。
その小屋で、ヨガをしたり、みんなで鍋を作って食べたり、しゃべったりしているらしい。しゃべってばかり、とも言っていた。写真をみると、友達みたいな人たちと、あの寮や大学院でしていたような光景だった。
すごい、と思った。仕事のかたわら、こういう世界を自分で作っていることに。
つい比べてしまい、自分との違いに圧倒された。
私は私でいいんだった。けど、友達は、私がヨガを始めた時みたいに不思議とスッと私の生活に入ってくる人だから。それから、私も影響を受けたいと思っているところもあり、何か変わるのかもしれない。
🧘♀️🧘♂️
新大阪で待っていた時、友達が新幹線の中から「あなたの国はすばらしいね!」とLINEを送ってきた。写真も付いている。遠くに五重の塔が写っていて、あー京都か、と思う。
たしかに目の当たりにしてみると、五重の塔も富士山も、私だって毎回感動するけど、普段は「あー京都ね」ってしたり顔で通り過ぎる。
そういえばこの人外国人だったなと思い出し、この待ち合わせ場所もわからないかもしれないとやっと気付いた。
案の定、私の送った「新幹線の改札は出て、でも在来線の改札は出ないで」という説明がわからなかったらしく、「在来線?」と聞き返された。
在来線って、何て説明したらいいんだろう。JRの…普通…??? 普通って???
友達は、大回りして何とか自力でたどり着いた。さすが。
「そういえばあなた外国人だったね」と言うと、「発展してない国から来たんだから、(在来線なんて)わからないよ!」と言われた。
そうか。タイには鉄道ってそんなに種類がないのか。むしろこの国が異常にありすぎるのかもしれない。
さっきのLINEについて、「この国の何がすばらしかったの?」と聞くと、「紅葉!」と言う。紅葉か! でも、犬山城(愛知県)はまだ紅葉していなくてがっかりしたらしい。
紅葉、今年は遅いらしいからと適当な推測を言うと、「でも新幹線で見た! 京都はすばらしかった!」と言った。
紅葉かー。紅葉を見に行くとか、なんか忘れていたな。当たり前のことすぎて見過ごしていた。
本当は、この来日が決まった時、友達から「名古屋の美術館に浮世絵を見に行かないか?」と誘われたのだった。行きたかったけど、勤務先の高校が期末試験の最中だったから断ってしまった。かわりに(関空からタイに帰ることにして)、新大阪で会うことになった。
結局、友達は、名古屋の美術館には行かなかったらしい。「浮世絵、見たかった!」と言う。
続けて、「あなたたちはいつでも見れると思っているでしょう?」と言われる。
その通りだった。紅葉も浮世絵も、四季があることも、在来線も地下鉄も当たり前で、いつでも見たり体感したりすることができると思っている。でも、別の国の人にはそうじゃない。
いつかの春、私がミスドでうだうだしているとタイからLINEが来て、「今何してる? 外に出て! 花見に行って!」と言われたこともある。本当にそうだな。その時のことを味わわなければいけないな。
🧘♀️🧘♂️🧘♀️
政治のニュースをよく見ることもあり、この国のことが嫌になるのだが、「元気?」ときかれて「元気!」とうまく答えられないっぽいのはそのせいかもしれないし、元々の性格のせいかもしれない。
一人で考え込みすぎて暗くなっているのが、こういう友達の前でさらされるのはツライなと思いながら存在していた。
この言葉は嫌いだけど、こういう人が本当の「陽キャ」っていうんじゃないかな!
もちろん、友達は海外旅行中の身で、私は日常だから、気分の差はあるのだろう。それにしても、自分があまりに何もかもについて憂えすぎている気がした。仕事も、将来も、年齢も、経済的なことも何もかも。
友達は、そういう深刻なことに捕まらないで、日々、「つまらない」という仕事をこなし、自分のヨガの小屋を持ち、時々出張や旅行で日本に来ている。そして、よくこの国のことを褒めてくれる。
自分の冷めたた態度とか、わかったような顔をすぐしてしまう感じって何なの? と、こういう友達に会うと思う。そして、『チ。』というアニメを思い出した。
そこに出てくる、中世ヨーロッパの天動説を信じている人々や、地動説に気付き始めた人々は、どういう立場であれ、この世界よりも、死んだ後に行く「天国」のほうがすばらしいと思って死後に期待を寄せていたし、現世の自分の誰かに踏みつけられたりする身分やみじめな生活ぶりを考えてもそうだと信じ、「天国」への希望を持って生きていた。
でも、実際は、今見ている目の前にあるこの世界の(自然だけじゃなく文明もふくめたすべての)すばらしさや美しさに気付いていて、それを否定できない、認めざるをえない、ということが描かれていて、これって今の私じゃん、それから今のこの国の人たちじゃんと思った。
期待できない現世の社会、政治状況だけど、この国とかこの世界や地球に感動したりすばらしいと思うことを否定できなくて、でもそういうことに対して手放しで喜んでいられる状況でないこともたしかで、何かその狭間にいるような感じ。紅葉や浮世絵の美しさ、あんなに暑かったのに朝の冷たい空気に目が覚めるような思いがすること、季節が変わっていくことに毎年驚いていること。
何も考えずに、何も気付いたりしないで、喜んでいたかったなあ!
……そうなのかな? 友達は何も気付いていないから、いろいろなことに喜んでいられるのかな?
両方を知る人なんじゃないかな?
私もそうなれないかな???
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