スニーカーの神様
家事育児をしていたら、私に手紙なんか書けないんだなーとわかった。
まとまった時間なんか取れないから、落ち着いて考えたりすることができない。
何より、そもそもその気にならない! 忘れる……というか、紛れて消える!
これが母親になって交流の途切れてしまった友達の現実か、と思う。
(念願のジンジャーシロップ)
私はこの前、ほとんど無理矢理家を出て、近くの喫茶店で2時間過ごし、二つ文章を書いてここに載せた。出来はともかく、形にしたことで安心する気持ちと、書き始めたらやっぱりまだほんの少ししか書けていないと実感して帰った。
家では、私の出発時に、自分も一緒に散歩に行けるんだと勘違いして靴下と帽子を持って追いかけてきて結果的に自分は置いて行かれると知って身をよじって大泣きした子ども(1才10ヶ月)が昼寝していた。妹と母が言い聞かせてなぐさめたようだった。
今日も、前日から「私は明日朝、パソコンを持って喫茶店に行きます!」と宣言していたので(これ大事!)、子ども以外は納得したうえで、支度や、それぞれの行動をして、妹の機転で子どもが玄関に背を向けた姿勢で朝ごはんを食べている隙に、私は「行ってきます」とも言わずにそっと出てきた。
それでも、洗濯第一弾から第二弾に移行して必死で干している母の機嫌はあまりよくなさそうだった。(私が小声で話しかけても、妹が嫌がる子どものパジャマを脱がせて洗濯機の近くに放って「これもお願いしまーす!」と声をかけても、母は無言だった。)
これだよーこれこれ、という、私や妹には長年おなじみだけどやっぱり毎回傷付くのよの不穏さか、あるいは「無」なのだった。
私は一瞬だけ、出掛けることを躊躇したけど切り換えて、もうあまり気にしないようにしよう、気にせずに出かけようそれが今はいちばん大事、と心で唱えて外出の準備に専念した。
きっとそのことにあまり意味はないのだ。「無」に理由はない。
落ち込んだり、憤ったり、原因を追究するのはもうやめようと思った。
そして、帰ったら妹にも言おうって、今書きながら考えている。
前回書いた文章にも、少し前に自分の部屋(キッチン)について書いて載せた時も、それぞれ別の友達がすぐに感想をくれたのだった。(もう泣いています)
お互いの、それから日本の(!! なんて大きなテーマなんだ!)「母」について、これまで一緒にたくさんのことを話してきた友達は、私の母にまた会いたいと言ってくれていて、そのことが私をどれほど支えているかしれない。私はここに帰ってきて母に何度もそのことを伝え、そのたびにもう3人で会ったかのように温かい気持ちになって、じんわりと友達の言葉や存在を感じた。
キッチンの文章を気に入ったという友達は、いつものようにリアクション大きく、即座にそれを伝えてくれた。私が、自分でもよくわかっていなかったかもしれない「生活」を大切にしたいと思っていることが、友達によって文章の中からすくいあげられたようだった。
私はこうしてなんとか外に出かけて、書き続けていたらいいのだろう、と思った。
昨日は母と街に出かけた。
これもまたほとんど無理矢理で、「スニーカーを買いに行こう、それからあんみつを食べよう」と言って母を連れ出したのだった。
私が帰省してやっと美容室行った、というぐらい、この一ヶ月ほぼ家に居るかスーパーにしか行っていなかった母は、「暑いし」とか、「○○(妹や子の名前)はどうするの?」とか、「みんなのお昼は?」と言っていて、私は聞いていて全部に泣きたくなったけどいちいち泣くのはもうやめてすぐに、「涼しいルートを選ぼう!」とか、「大丈夫! 日曜日は○○(妹)の夫もいるから任せよう!」とか、「みんなのお昼? 夫は大人だ!」とか、半ギレ半苦笑やっぱり大泣きで返した。さながらオリンピックの誰かの試合、たとえばテニスの金メダルがかかった決勝における緊迫したラリーみたいだったけど、私の場合は絶対に落とすわけにはいかない……!(みんなもだよ!)
(それでもやっぱり、「みんなのお昼は?」にはもう言葉もなかったよ。今も泣きたい。なんでだよ……なんなんだよもう……大泣)
結局、母が「○○(妹)が『いい』って言ったらいいよ」と言ったから、無事に行くことになった。
(正確に言えば、母を誘う前に妹に打診していて、その時は一瞬、妹も「え?!」というムードだったのだ。これはいつもの妹らしくない反応で、私はちょっと驚いたのだが、妹は羨ましかったのかもしれないし、夫&上の子がプールに出かける予定もあって、家に赤ちゃんと二人で急に取り残されることに不安をおぼえたのかもしれない。時間が経ったら、妹も私のアイディアにしだいに慣れて、いつもの様子に戻った。)
日曜日。
妹の夫&上の子がプールに行く準備をしている途中で夫が「水遊びができるオムツ」を家に忘れて来たことに気付き、全員の間に緊張が走った。「行けなくなるのではないか?!」という子どもと妹の不安のまなざしに耐えながら、手当たりしだいにドラッグストアに電話して(やや)特殊なオムツを探している夫の横をすり抜けて、私と母は街に出た!
調べておいたあんみつ屋は街の中心にあって、その位置は、地図を見なくても私の口頭の説明だけで母にはだいたいわかるのだった。街の至る場所が、日々ものすごい速度で昔の面影を失っているけど、どんなに変わっても、老舗の百貨店は同じ場所にある。母が、「街の百貨店」に特別な買い物をしに来ていた時のように、人々の中にある「思い出」には、誰も無理矢理介入なんてできなくて、いくら「進化」しても、それらを強引に変えたりすることはできないのだと実感する。街の風景や、それがそこにあったということは、その人のよりどころや誇りとして、いつまでも自分の一部を支えているのだろう。
地下鉄から続くアプローチの、今となっては古びて暗い壁面のタイル画も変わらない。そんなものを、「古いねー」とか「昔のまんま」と指さす母と一緒に歩く。
それは、発見したものを新鮮な感動のまま何でも指さす上の子に少し似ていると思った。
あんみつを食べて、スニーカーを買いに行った。
ついに何件目かの電話でオムツを売っているドラッグストアを見つけ、夫と子どもは無事にプールに出発したというLINEを妹から受け取り、母と二人でホッとする。
そうそう。こうして個人が個人の行動をすればいいんだな。
気に入っているスニーカーのブランドの路面店が街にあるのだった。
一年前に帰省した際、母と妹と子ども(その時はまだ一人だった)と街に遊びに行って、私と母はその店でスニーカーを買った。
歩きやすさは言うまでもなく、スニーカーには珍しい花柄や華やかな色合いを私も母も気に入っていた。とりわけ、私は職場で履いていて、これは全然大袈裟な表現でなく、何十人もの人に褒められる「かわいい」スニーカーなのだった!! 男女老若問わず何十人もに!!!
なかには、何度も褒めてくれる人や、わざわざ「かわいいですね」と伝えに来る人、教室でテスト監督中の私に、廊下を巡回しながら「めちゃくちゃかわいいですね。これって、○○(メーカーの名前)ですか?」とコソコソ会話をしてくる人、あまりにかわいいからとブランドの名前をメモして調べ、「ネットでしか買えないとかじゃないんですね!」「いえ! 街に路面店があります! 限定品とかじゃなくて普通に買えます!」とかいう会話をするなどなど……なんだか奇跡のようなスニーカーなのだった。
(左側が私。右側が母。)
しかし、こんなに褒められるとは、これまで働いてきた場所では経験したことがなく、想像もできない褒められ方なのでとまどいつつ、一応分析すると(そういう役割なので)、このスニーカーが猛烈かわいいことは絶対条件なのだろうけど、たぶんそのスニーカーを履いている私はきっと今まででいちばん自由そうで楽しそうでやさしそうで「猛烈かわいい」から、みんなが話しかけてくるんだろうな~~と考えている(分析終わり)。
すっかり気を良くしている私は、こんなにかわいいなら仕事場だけでなくプライベートでも履きたいし、いずれにせよ大体いつも靴不足なのだからもう一足買おう、母も誘おう、と思いついたのだった。
メーカー品だし(大体のスニーカーはみんなそうか)、東京靴流通センター(なつかしい)とかで買うわけではないから安くなっているわけでもなく、立派なお値段のため、私にとっても母にとっても高い買い物だ。
そのうえ、母は「外に行かないから二足もいらないよ」とか言いがちだ(言ってた)。
実際のところ、妹の情報によれば、母は花柄スニーカーをいたく気に入って大事にしており、とっておきの時に履くことにしているという。妹いわく、「普段使いしてほしいし、気軽に履けるように二足ぐらい持ってたらいいと思う」とのこと。
それで私は、渋っている母をその気にさせるのは街に連れ出すのと同じぐらい手がかかるだろうと覚悟した。でも、妹の情報や意見を伝えたり、私がとにかく職場で何十人もに褒められているという逸話をもう何十回目になるかと思うぐらい繰り出したりしているうちに(このエピソードは古典の「伝説」のようだよ。こうして古典化していくのか笑)、ある夜、母は自分のスマホでブランドのサイトを開き、商品を眺めていたので、私は「早い! イイネ!」と思った。
よかったー。妹もびっくり喜んでいた。
スニーカーショップは街のメインの通りに面していた。
黒い壁にスニーカーが陳列されており、ラフな格好の若い店員たちがぶらついているというスタイルの店なので、私も正直なところ入りづらい(店員さんは好ましい人たちです)のだが、母はもっと気後れしているから、そのこともまた、家族以外の人と遭遇すると固まったり下を向いてしまう上の子と似ていると思った。
目当ての花柄スニーカーは、種類が限られていてすぐに見つかった。
手に取った瞬間、店員がやって来る。
「お気軽に声かけてくださいねー」と言われる。
若めだけどそんなに若くもなさそうな、軽めのドレッドヘアーみたいな男の人だった。
私は女の人がよかったけど、まあ仕方がなかった(男女差別)。その気持ちが態度に出てしまうのも初手では仕方がない(抑えられない偏見)。ここからの私の態度は、目の前のこの人がどんな人かということによる。それはもう、すみません! と言うしかないことだ。
何分か粘って待ったけど、その人しか空いていなさそうだったので、声を掛けて母のサイズを出してもらう。
赤がベースの華やかなタイプと、水色がベースの涼し気で簡素なタイプ。
ネットで見ていた時は「赤がかわいい!」と母は言っていたけど、私が「私も買いたい」と言ったら、お揃いにするのか? 色違いにするのか? それとも……? という新たな問題が浮上して、母も私も軽く混乱していた。
母は履きながら、まだ試し履きもしていない私に、「どっちにするの?」と尋ねたから、私は、もし私が好きな方を選んだら母は私に譲って、別の方にするのかな、そうじゃなくて母が好きなものを選ぶべきだ、と考えた。
それで、母に似合うのは赤か水色かと観察したり、母が気に入っているのはどちらなのか想像した。
……どっちもかわいかったし、どっちでもよかった!
そしてそれは、母のことでもあったし、私のことでもあった。私は何でもいいのだった。だから、私は少し困ってしまった。
母も、決めかねているようで、左右に別々のスニーカーを履いて鏡の前で見比べていた。
私は、軽めドレッドヘアー店員に、前回買った二人のスニーカーの写真の母の靴の方を見せて「このシリーズはもうないんですか?」と聞いた。
同じものがもう一度欲しかったわけではなく、何か新しいことを言ってくれる人がいてほしかったのかもしれない。
彼は、「あ、前も買ってくださったんですね、ありがとうございます」と言い、シーズンごとにシリーズが変わるので、そのタイプはもう販売していないと言った。そして、履き比べている母に、「あのタイプのものをお持ちなら、今度は赤などの華やかな色合いの方をお持ちになるのもいいですね」と言った。たしかに、母が前回買ったのは、紫と青の印象が強い花柄だった。さらに続けて、前回の靴や今回迷っている靴のそれぞれの色合いの印象を説明している。それぞれの言葉に、気遣いや、決め付けや押し付けにはならないように配慮しながらも、自分の意見は言う、といった性質がうかがえる。
私は、この人信頼できる! 好き! と思った。
母は、ドレッド店員の言う、「違う印象のスニーカーを、季節ごとに履き替えるのもいいですよね」というアイディアに「これだ!」と思ったようで、明るく、「そうかー!」と言って、赤に決定していた。
母はお店に行く前からもともと赤が気に入っていたけど、今考えてみたら、ドレッド店員が赤推しだったような気もする笑。
私は、何より、自分の意見を持っている店員が好きだし、その分野のプロが、その商品をあらゆる言葉で説明してくれるのを聞くのがとても好きだ。印象とか、雰囲気とか、私(素人)にはできない言葉の説明。詳しく知れるからというより、言葉や表現に萌えるのだと思う。フェチ?
そして、私も試し履きしたいです、と言ったけど、私のサイズ25.5センチは作られていなくて、そうかー前回買った伝説のスニーカーは、25.5まであったから、そのこともあってその靴に決定したんだな、ということなどがするするよみがえってきた。
試しに私も、母が買うことにしたスニーカーの25センチを履いてみたけど、ストッキングタイプの靴下の上になら履けるけど母の持参した靴下を借りて試したら、ピッタリ余裕なしという感じだった。ドレッドさんは私のつま先や靴の幅を検分して、「履けていなくはないですけど、正直、『余裕で大丈夫です!』とは言いづらいですね」と苦笑していて、そんなところも信用できすぎる―! と私の評価は爆上げだった。
だってだいたいの店員さんって、「靴は履いているうちに伸びます」って言うじゃん! ……ねえ? ムリして買わせないなんて。すごい!
そこで、前回と同じスニーカーを買うのもつまらないし、じゃあちょっと私は考えます、とお断りの方向で締めくくろうとしたところ、ドレッドさんは、「実は昨日入ってきたばかりの靴があるんです。それなら25.5センチまであります。雰囲気がちょっと違うので、どうかなあーと思って言わなかったんですけど」と言う。「見てみたいです」とお願いして、持ってきてくれたのは黒で、黒かーと思ってよく見たら、花柄だった。何かのデザインとコラボしているらしい。「僕が知る限り、お客様が1番目です」と言われて履いてみたらかわいかった。考えていなかった黒で、その日に着ていたワンピースと合うわけでもないのに、なんかいいなと思った。
ドレッド氏はさらに、「実は……色違いがあります!」と言うので私は、「もう! 早く言ってくださいよー!」と言い(仲良しか)、「いや、単に僕の好みっていうだけで、黒を持ってきてしまいました」と言いながら、色違いのピンク紫系色を持ってきてくれた。私はそれを見る前から、「僕の好みで黒」かー、好みで黒、黒がいいって思ったんだ―🖤 ということが頭の中をめぐり、目の前に現れた紫・ピンクはあんまり見えてなかった。
ドレッドさんは、もちろん、それぞれの良さ、だけど黒の方が好き、ということを言葉で説明してくれて私は最初から決めてましたなくせにフンフンとそれを全部聞き、迷うふりをしてもう一度履いて鏡を見に行ってから「黒にします!」と言った浮かれているなールンルン♪
それにしても、カラフルなスニーカーを求めているであろう人(私)に、カラフルな色違いがあるのにもかかわらず、「自分が好みだから」というだけでまず「黒」を持ってくるってすごいよなと思う。神業っていうのかな! 単純に「自信」というのとも違って、「天然」というか「天性」という感じがした。「感覚」で仕事してる。それがよかった。
私は試し履きしたスニーカーを脱ぎながら、前回買った靴を指さして、「この靴、気に入ってます。何十人にも褒められます!」と鉄板の報告をしてドレッド君を喜ばせ(「それが聞けてよかったですー!!」)、私はそれを言うために今日ここに来たんだなとわかった。
「ぜひ長く履いてください」と言って見送られながら(この言葉もいいー!)、「そうかー、仕舞いこんでたらダメなんだね。古くなったり、悪くなっちゃったりするもんね。履いていかなきゃね」と言う母の理解が光の速度であることに衝撃を受けながら、私や妹が重々説明するよりもずっと、外の人に気持ちよくおそわり、楽しく納得していく方法があるんだなー、色んな人と話すの大事、外に出よう、神様本当にありがとう、と心の中で感謝した。彼はスニーカーの神様だと思った。
靴下かわいい母の靴下。
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