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『君たちはどう生きるか』に対する感想と回答

ATTENSION SPOILER!!!
ネタばれ大注意!!!

この記事は私のホームページにも同時投稿しています

概要

  • 見た人前提でストーリーの詳細については省きながら、私のファーストインプレッションを書き記した

  • この映画は観客に対して考えることを求めている

  • この映画はSFである

  • 我々は、自分たちの生き方を振り返り、前を向いて生きなければならない

お願い

皆様に一つのお願いをしたい。
どうか、あなたがまだ『君たちはどう生きるか』を見ていないのであれば、今すぐにこの記事を閉じてすぐに映画館へ行ってほしい。
私の感想に侵されないで、あなたはあなたのまっさらな気持ちでこの映画にぶつかってほしい。

それを守ったうえで、次章以降をお読みください。

映画作品としての評価

普遍性:10/5
映像表現:25/25
音楽表現:25/25
ストーリーの上手さ:30/20
設定の妙:30/15
終わり方:8/10
合計:128/100


はじめに

私は、映画体験、映像作品体験の黎明期に、宮崎駿という人物から大きな影響を受けています。
『未来少年コナン』、『風の谷のナウシカ』、『紅の豚』といった作品たち。
その、よく練りこまれたストーリーライン、人物の描写、表情に現れるセリフではないメッセージ、流麗な映像、どれをとっても、宮崎駿、ひいてはスタジオジブリの作品に、私は強く影響を受けた。

そして今回の、『君たちはどう生きるか』。
圧倒されました。
私が映画という表現媒体に求める最高の要素が、はちきれんばかりに詰め込まれている。
ストーリーも、設定も、構成も、映像も、そのすべてがあまりにも強烈すぎた。

ここで私は再度、皆様に一つのお願いをしたい。
どうか、あなたがまだ『君たちはどう生きるか』を見ていないのであれば、今すぐにこの記事を閉じてすぐに映画館へ行ってほしい。
私の感想に侵されないで、あなたはあなたのまっさらな気持ちでこの映画にぶつかってほしい。

それを守ったうえで、次章以降をお読みください。

問いかけへの回答の前に

表情で語る

私はこの映画を、「画で語る映画」だと感じました。
一般に映画は、他人に理解をさせるものだと思いますが、『君たちはどう生きるか』では、そういった理解をすべて画に込めており、言葉だけでは理解できない作りになっています。

例として、映画冒頭の、主人公・牧眞人(以下、眞人)と継母・牧なつこ(以下、なつこ)が初めて出会うシーン。
なつこは継母として眞人の母になることに、ある種の決意めいた、まっすぐで純真な表情を浮かべていました。
それとは対照的に眞人の顔は強張っていて、死んでしまった母への思いや、新しい母への対応の仕方など、多感な時期ならではの苦しみを浮かべていた。

続くシーンも圧巻で、なつこが眞人の手を取って自らの腹に当てた時の眞人の表情にぞっとさせられました。
父となつこがどういった関係であるかを幼いながらも理解し、その結果として新しく生まれる命が「弟(妹)」であることに違和感を覚え、そして、母ではない女性の体に手を触れたことへの恥ずかしさもあり、あるいはそうしたなつこの態度に母を重ねて……。
一瞬のシーンですが、私はこの瞬間にこの映画に120点を出そうと決意したほど、衝撃を受けました。
それほどまでに、「表情で語る」ことの凄まじさを叩きつけられました。

眞人が住むことになる屋敷のおばあちゃんたちの、なつこに対する表情と仲間内での表情の違いにも面白味がありました。
少し取り繕ったような笑顔と、本音を見せながらも優しげな表情の差分はほんの微妙なものですが、しかし確かな変化があります。
彼ら使用人としても、なるべく眞人と打ち解けたい、しかし彼の方から拒絶めいた意思を感じてしまう。
年の功を持つ彼らにも、眞人という少年は扱いづらかったのでしょうね。

眞人の父親(以下、父)の表情にも、興味深さがあります。
というより、父の表情から、この物語は基本的に眞人の視点によって描かれていることが痛烈にわかります。
父の表情には、私はどこか狂気じみたものを感じました。
父親という役割を超えて、多少過保護で過干渉な、強大な父親の表情です。
眞人にとっては、ある種の違和感と恐怖を持つに値する人物だったのでしょう。

そして、物語の後半に、なつこと眞人のさらにとんでもない表情が出来るわけです。
産屋に横たわる彼女を迎えに来た眞人を拒否するなつこの表情には鬼気迫るものがありましたし、「なつこさん」と呼ぶ眞人の表情にも、決意の中に複雑さが垣間見えました。
しかし、ついに自分の中にある迷いを断ち切った眞人が「なつこお母さん」と呼んだ瞬間の表情と言ったら……。
本音を言った眞人に、本音をこぼしたなつこ。
あまりにも、もはや戦慄というに近い映像表現でした。
鋭い拒絶を示したなつこの表情が、「お母さん」と呼ばれて緩むのを見て、思わず小さく呻いてしまいました。

「表情で語る」「言葉にせず伝える」のは、純粋に難しいことです。
映画全体を通して、そのキャラクターの表情にやられました。
本当に素晴らしかった。

戦争の時代を背景として使う

時代設定についても、なかなかに面白いものがあります。

戦前、戦中、戦後にかけての日本を舞台にしていますが、戦争自体の悲惨さを直接的に表現していないのです。
もちろん、物語の中には戦争によって犠牲になる人間の暗喩であろう部分がそこかしこに出ていると思いますが、直接的な表現は極めて少ない。

物語冒頭の、空襲を逃れて疎開する描写には、まだ戦争の影が田舎の方へは来ていないことが見て取れます。
列車に乗っているときの暗さと比べて、疎開先の駅に着いた時には、駅前にバスが止まっているし、なつこさんの服装も美麗である。
もちろん、眞人の父が工場を持つお偉いさんであることや、なつこが良家の出身であることも影響しているとは思いますが、まだ戦争の始まりから中期までの間であると推測できます。

田舎特有の描写についても、面白味がありました。
眞人が初めて現地の学校へ行ったとき、彼の周りにいた少年少女たちは、皆くすくすと笑っているか、嫌なものを見るように顔をゆがませていたりしていました。
私も知識でしかありませんが、都会から疎開した少年少女たちは疎開先の同年代の人々にいじめられて過ごしたと聞きますから、知識と照らし合わせてとても説得力のある描写です。
また、眞人の苦しみに対して、孤独をより際立たせている点や、この間の映像に一切のセリフがないことも眞人自身が心を閉じているようであると捉えられます。

このあたりの、直接年号などを出さずとも描写からいつの時代であるか、どういった世界に眞人たちが生きているかが分かるようになっているのはさすがだと思いました。

この物語は壮大なSF

そして、この物語の最大のポイントは、『シュナの旅』『風の谷のナウシカ』と続く、宮崎SFの最新作であるという点です。

一見、この物語はSFには見えません。
極めてジブリらしいファンタジーに思えます。
ですが、要素を見ていくと、時間を上手く組み合わせたSFであることがうかがえます。

以下、私が出したこの作品に対する一旦の結論を述べていきます。

大叔父が建てた塔、隕石は命を吸って願いをかなえる装置

大叔父が塔を立てて守ったあの隕石は、どうも、人の命を吸い取ってエネルギーとしながら、代わりに願いをかなえる装置であるように感じました。

そもそも、大叔父が塔を建てる際に、事故で多くの人が死んでしまいました。
ある意味であれは、隕石に対して知ってか知らずか、命を捧げていたのだと思います。
そして、最後にあの塔に住み着いた大叔父が、ある意味でその甘い汁を吸えた。

生の世界と死の世界をつなぐ中間世界

そして大叔父が石との契約の結果割り当てられたのは、生の世界と死の世界に中間に位置する世界であると私は考えます。

象徴的にそれが描かれているのは、ワラワラの存在です。
どこからともなく世界に生まれ、キリコに魚をもらって成長し、上の世界へ旅立っていく。
果たして死の世界が、本当に人類が想像するような天国や地獄のようなものか、はたまた単に隕石に吸い込まれた先の世界かは分かりません。
しかし、あのワラワラという存在が、上の世界と大叔父の世界をつないでいる、命の循環を指している要素の一つである事は確かだと感じました。

ペリカンやインコたちは、世界の守り人、美しい要素の一つとして呼ばれた?

大叔父は過去に海軍士官だったそうですが、時代を考えれば、おそらく日清・日露戦争に従軍していたことは想像に難くありません。
そうであれば、大叔父が作りたかった世界は、自然をたたえ、生き物たちが共存し、花が咲き、鳥が飛び、魚が泳ぎ、命が潤う世界だったことでしょう。

その中で、大叔父が呼びたかったのがなぜ、ペリカンやインコだったのか?
私はその理由として、

  1. 単に美しい要素の一つとして

  2. 石の世界の守り人として

  3. 私の想像の及ばない、別の出典からのオマージュとして

だと考えています。
この点について、私はまだ自分の中で回答を出せていません。

ひみが呼ばれたのは、ペリカンやインコの暴走を抑えるため

ひみが呼ばれ、炎の力を与えられたのは、ワラワラを食べだしたペリカンや、増長し国家を持ち始めたインコ達の増殖を抑える為であったと考えます。
最終的にペリカンたちは大きく力を伸ばすこともなく、衰弱の一途を辿っていったわけですが、インコたちの方がより邪悪でした。

ひみは、あるいは大叔父の悪意を鎮めるために呼ばれたのだと思います。
そしてその力をもって、世界のバランスを保つ要素として、一年の間炎を使い続けたのでしょう。

隕石の中=大叔父の世界は、離れた時間をつなぐ事が出来る

石の世界の根幹をなすシステムである「時間をつなぐ」設定。
これは、宮崎駿が繰り出してきた最大のSFだと思います。

石の世界には、本来同居するはずのない人物が同居しているわけです。

  1. 幼いひみと眞人

  2. 若いキリコと眞人

  3. 妙齢のなつことひみ

彼ら自身は一定の時間の中を生き、そして何の因果か石の中で出会うことになった。
そうなると、おばあちゃん・キリコがなぜあの世界に呼ばれたのかも理解できます。
若いキリコがひみと同じ扉から出て行ったのも、それを裏付けるようで感慨深かったです。

なつこが呼ばれたのは、血縁の者としてでもあり、世界をつなぐ生贄の為でもある

なつこがなぜ、あの世界に呼ばれたのか?
これについて、私はまだ明確な答えを出せずにいます。

推測としては、以下のようになると思います。

  1. 体力の弱ったものが吸い込まれるから

  2. 子供がいるなつこの命に特別性があったから

  3. なつこ自身が大叔父の血縁であったから

その他様々考えられますが、私は次のように推測しています。

  1. なつこは血縁のものとして、大叔父の世界の後継者として呼ばれた

  2. しかし彼女は身ごもっていた

  3. 「子供を身ごもること」は大叔父の美しい世界には相いれなかった(処女性)

  4. 子供は石に捧げる命として。なつこ自身は生んだのちにインコの餌として、産屋に送られた

おそらくあの世界の「悪意のない石」とは、子供であることなのだと思います。
汚らしい話かもしれませんが、非処女や非童貞は、それだけで彼の世界には既に悪意を持った存在だった。

そして眞人は、子供ながらに自分の悪意を心の奥底で理解していたから、産屋に入ることを許されなかった。

推測では、そのように考えています。

アオサギは隕石の使い魔か、大叔父の使い魔か?

さて、ではアオサギはどういった存在なのでしょうか。

大叔父の使い魔、だとすれば世界の消滅・崩壊とともに消え去ってしまってもおかしくないでしょう。
しかしそうはならなかった。
つまり、存在としてのよりどころは大叔父ではなかったと考えられます。

では、隕石の使い魔か?
それもおそらくは、半分当たってはいるが半分は違う、というところだと思います。
隕石の使い魔であれば、それはそれで大叔父の場合と同じ理由で消滅しているはずです。

私は、彼はお化けのような存在、アオサギに宿る神様のような存在であろうと思います。
「彼は元々、隕石のあった辺りに住んでいるアオサギであり、それが徐々に隕石によって不思議な力を得て、気まぐれに彼らを手伝うようになった」と考えると、なんとなく辻褄が合う気がします。

眞人と大叔父が対照的に描かれている

この作品では、最後、眞人と大叔父の問答がクライマックスであるといえます。
この二人が、実にうまい事対比して描かれているように感じました。

主人公、牧眞人(以下、眞人)は、あるいは大叔父の幼いころのようであって、そうではない。

また、大叔父は、眞人の成長した姿のようであってそうではない。

最後の問答で、大叔父は、悪意にまみれた自分の中から、後継者、新しい子供へ向けての積み立てを用意していました。
美しい子供のために、美しい石を用意し、新しく世界を作り上げてほしい。
そんな思いが見えました。

反対に眞人は、大叔父の提案を断った。
自分は既に純真な子供ではない。
自らが頭部に作った傷がその証拠だと。
あるいは、用意された道を生きるのではなく、自分の悪意すらも抱えて、自分の道を生きていこうという信念が見えました。

あるいはこれは、宮崎駿から我々への世代交代のメッセージともとれるかもしれないし、純粋に若者たちは自分の道を切り開きなさいというメッセージにも思えました。

友達

ひみとキリコ。なつこと眞人。
それぞれの扉を潜って元の世界に戻ると、背後の塔は脆く崩れ、逃げ出したインコやペリカンが元の姿を取り戻して夕焼けの大空へ羽ばたいていきます。

ポケットに入っていた小さな石のおかげか、塔の中の世界での出来事を覚えている眞人に対して、彼が放った最後の一言が

「じゃあな。ともだち」

アオサギの言葉は嘘だという。
でもこの最後の一言には、本音が詰まって見えた。
あの最後の一言を、誰も嘘だとは言わないでしょう。

帰ってきた眞人は、父や、使用人のおばあちゃんたちに迎えられ、喜ばれ、優しさに包まれました。
友達と過ごした一晩の大冒険を忘れてしまうでしょう。
それでも。

戦争が終わって2年後。
疎開から東京へ戻る彼が、あの部屋で最後に読んでいたのは。

『君たちはどう生きるか』

総評・問いかけへの感想

素晴らしい作品でした。
それ以上に言う言葉がありません。

どれをとっても、私にとって心に響く作品でした。

「君たちはどう生きるか」。
私はどう生きるべきなんでしょうか。
いや、生きるべき、ではないのでしょう。
生きていく中で、自分という命を燃やし続けていく。
あるべき論なんて関係ない。

私は、私の向く方向を探しながら、迷いながら、倒れたりしながら、一歩ずつ前へ進んでいこうと思います。

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