未掲載エピソード#03「きみはまだ、本当のうんこを知らない」
このお話は現在発売中の「都会を出て田舎で0円生活はじめました/田村余一・田村ゆに」を出版するにあたって田村ゆにが執筆したエピソードです。本には掲載されず、書いてから約1年経ってみると現在の心境は少し変化しているのですが、せっかくなので公開します。
本の方は、田村余一のポップでわかりやすいエピソード満載です!
まだ読まれていない方はぜひお手にとってご覧ください♪
未掲載エピソード#03「きみはまだ、本当のうんこを知らない」
うんこの捉え方で価値観がわかる。あなたは「うんこ」と聞いてどう感じますか?
「汚い」「くさい」「嫌なもの」そんな不快感を覚える人は、うんこを拒否することで嫌なことから逃げている。この世の不都合なものは汚いものばかりで「汚い」という価値観に押し込めて、真実を見えにくくしているように思う。
子どもって「うんこ」がめっちゃ好き。うんこドリルとか流行るくらいだから、本能的になんか好きな存在のはず。それがいつから嫌いに変わたのだろうか。大人が純粋な感覚に「汚い」と押さえつけ、遠ざけたその日から、うんこを口ずさんではいけないようになる。
うんこは臭う。それは事実。でも実は不快に感じるほど臭いうんこって、腸内環境が荒れていることが理由でもある。おならが沢山出たり、臭う時も同じ。
うんこが臭いのが当たり前になっているなら、臭くないうんこは実現できる。するっと快適に放たれて、黄色くて1本でふんわりしている。きちんと腸内での発酵を経て、堂々と畑の微生物のごはんとして献上できるもの。そんなうんちをした日は心地よく、そんな自分が誇らしい。
自分のうんこと向き合っていると、日々うんこの状態をを知っている。きっとほどんどの人は、いつ出たかを把握していても、どんなうんこをしているのかは知らないのが現状だ。
毎日口にしている食べ物に興味があっても、口に入って見えなくなるとその行方には途端に興味がなくなる。
だから何のために食べているのかを考え、口にするものへの感心が高い人は自然とうんこへの関心も高いように思う。
だからと言ってうんこを知らないのは、あなたのせいじゃない。うんこへ意識が向かないのは、自分の意志と合わせて今のトイレの仕組みがそうさせている。
水洗トイレに、自動洗浄。うんこを確認したいと思ったら、みる暇もなく下水道行き。さっきまで自分の一部だったのに、こんなに無責任なお別れが普通でいいのだろうか。
うちは今ではコンポストトイレも5年目に突入。毎日のうんちを見て確かめて、捨てることなく活用する暮らしがある。
ここでわが家のトイレ遍歴をご紹介。
2016年→家の裏にある崖の下の林で野ぐそ
2017年→テントを改良した三角形のティピトイレを設置。とはいえテントはただの目隠しで、中にはスコップと土だけがあり穴を掘って埋めるタイプの移動式野ぐそ
2018年~現在 オイル缶を改良した据え置きタイプのコンポストトイレ
中身が溜まったら別の場所にあけて、完熟してから畑に利用。
野ぐそに対する抵抗感は人それぞれで女性はハッキリと、やりたい人とやりたくない人が分かれる。(思い込み的抵抗感)男性は立ちションはOKでも野ぐそになると途端にできなくなる。(警戒心からの動物的本能)
私は「野ぐそやりたい」タイプで率先して林に侵入し、その開放感を味わっていた。
みんな本能的にはその良さを知っている。だってトイレに、森林っぽい雰囲気を求めてヒバの木を使ったり、芳香剤に森の香りを選んでみたり、観葉植物を置いている。
それなのに本物の木々を目にして野ぐそが無理なのは、人目を気にしている他に理由はない。
きっかけをくれたのは、伊沢正名さんの「葉っぱ野ぐそをはじめよう」という本で、先に実践している人の心得は「野ぐそやうんちは罪じゃないんだ!」という精神的な後押しになった。
大人になって初めて林で野ぐそをした時、大地の一部になったような心地よさだった。
おそらく野ぐそは小さい頃以来。ドライブ中にトイレが近場になくて、親に連れられ林に駆け込んでした野ぐそが最後だ。ただそこには自然を堪能する余裕なんてなく「間に合わなかった」「本当はやってはいけない」という罪悪感の中にあるものだった。
動物には許されても人間には許されない社会のルールがあるので、勝手にしてはいけない場所もある。しかしチャンスがあれば、自然と社会的に許される範囲で野ぐそを経験して欲しいと思う。
大地に自分の一部を還すことは、動物に許された自然界へのギフトであることを知ってほしい。
そして野ぐそをしたらすぐには土をかけずに、自分のうんこを観察する。向き合って会話をする。これが大切なのだ。
トイレという閉鎖的な空間で、うんこを上からみると不快なほど臭うので、すぐに流したくなる気持ちはわかる。しかし自然な木々の目隠しと、開放的な空間でそれを見たところで不思議と気にならない。
本物の森は、森の香りの消臭剤の比じゃない。
そこにあるうんこはどんな形と柔らかさなのかを見てみる。食べたものの片鱗が見えるなら、急いでいてちゃんと噛んでいなかったのかもしれない。硬めのうんちだったら、パスタやパンばかりで野菜不足かもしれない。そういえば最近は空気が乾燥している。水分補給は足りていただろうか。
そうやって、うんことの会話で食事や生活習慣を見直せる。思い当たることを改善して、うんこも変われば心地よい。うんこは結果を確認するものじゃない、育むものなのだ。さらにうんことは、その人の人生だ。
うんこを観察しない人は、本当の自分自身に目を向ける勇気がないのかもしれない。
固く絞り出されたうんこの人は、何かしら我慢していて忙しくて食に関心を持つ余裕がなくて辛そうだ。もしかして便秘や痔になってないだろうか。心を緩めるとうんこも緩む。
うんこを観察するようになると視野が広がり、コンポストトイレをつかうと、うんこの質が気になり始める。
これまで他人事だったうんこが、自分のものになると変わるのだ。
下の世話をしてもらっているのは、赤ちゃんやお年寄りだけじゃない。私たち大人だってトイレに流した先で知らない誰かに処理してもらっている。
飲食店で味に文句を言う人。「あんたのうんこ分解しにくいから返品する!」と土の微生物たちからクレームが来たらどうするのだろうか。それもまた、自己責任。
実際に返されることはないけど、分解しにくいうんこは存在する。
大人として取るべく責任の1つ、うんこの始末。最後にどうやって人生を閉じるのかのように、身から放たれたうんこの行末までも見届けたい。