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常体と敬体のどちらを使うか

noteでは、どちらを使う方が多いのだろうか。

僕の場合、あまり意識していないので、記事によっては割合こそ違えど入り混じっている記事もあると思う。
本来は揃えないといけないのだが、ざっと読んでひっかかったところだけ直す程度の見直ししかしていないので、後から見るとかなり適当である。

ただ、そんな細かい一文ごとの話ではなく割合、僕という同じ人間が書く記事が常体か敬体か、を振り返ってみると、これも記事による。
今回は常体で書いているが、昨日の記事は敬体にしていた。
実をいうと、元々サイト時代に書いていた日記や更新連絡などは、ほとんど敬体にしていたので、その頃の書き方に沿うなら敬体を使う方が近い。
サイトにおける日記や更新連絡は、言うなれば、サイトを見てくれている不特定多数にあてた手紙のようなものだ。手紙や告知文は、普通、よほど親しい友人や知人でない限りは、敬体にするだろう。
そうやって考えてみると、昨日の日記は、手紙にも似た内容だったので、サイト時代の癖が強く出たのかもしれない。

そして、ここ最近書いている記事は、ほとんどが常体になっている。
なぜか、と理由を掘り下げてみると、何となく気恥ずかしい裏事情が出てきてしまう。
そんな大それた名前を付けるのをためらいはすれども、だ。やはりエッセイやコラムを意識して書いている内容だからではないかと思う。
先ほどの手紙の話ではないが、エッセイやコラムは常体の方が多く、敬体の方が特殊だろう。
だからnoteで書く記事のほとんどは、無意識に常体で書いているのだ。

さて、なぜいきなりそんなことを言い出したのか、というと、だ。
昨日は空き時間であわてて記事を投稿したので、見直しをあまりしないでアップしていたのだが、少し時間を置いてから見直して「なぜ敬体?」と首をひねったところから始まっている。
自分の記事を見直すのは、必要にかられてやりはすれど、そんなに好きな作業でもないのだが、案外そこから出てくるnoteのネタもあるのかもしれない。