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スピリチュアリティの危うさ

前回の投稿でASD/ADHDに関連させるような形__マイノリティを生きる人は自己価値が極端に低くなりやすく、愛されるために自分を過変形させ続けてしまう__そんな「生きづらさ」について書いてみた。

性質自体が生きづらかったのではなく「変わらなければいけない」「このままではいけない」と思う(自分を否定する)こと自体が、自分を苦しくさせていたのかもしれないという、最近感じていることをまとめたもの。

今日は、その「変わらなければ」と思い続けてきた自分が、スピリチュアリティの世界に触れた時の、危うさについて書いてみたいと思う。


「変われる」に希望を持つ厳しさ


私は18歳の時に、友人の勧めで仏教を母体にした宗教に入信(7年間走り抜けて、夜逃げして脱会。笑)して以降、20代前半で透視やヒーリングを学び始め、そこから色々なスピリチュアリティの世界に触れて来た。

今41歳なので、20年以上はそういう世界に希望を持って歩んできたことになる。その時々の自分に必要なものが目の前に来ては、そこを離れということを繰り返して来て、今は一定のコミュニティには所属はしていない。

私は、ずっと生きづらさを抱えてきて、両極端な存在が自分の中にいるようで怖かったり、自分に乗りこなすことなんて到底不可能な暴れ馬が内側にいるような感じがしていた。自分で自分が理解できないという恐ろしさみたいのがずっとあった。繊細すぎてボロボロだった。

だからこそ、もうこの現象の世界だけを説明しているようなものでは何も見えてこない気がして、目に見えない世界、そしてその両方の世界を支えている元となっている世界にしか、答えが無いような気がしたのだ。

だから霊的な世界に、自分の生きづらさを変えてくれる何かがある、と希望を持って歩んできた。

20代の、あまりに脆かった自分からすれば、楽にはなってきているし、何より、その時々必要な道を通ってきたなぁと思っているので、やって来たことを否定したい気持ちがある訳ではもちろんない。

けれど、この今「変わらなくてもいい」という視点が始まった今からその過去を振り返ってみると、「変われるかもしれない!」と希望を持つこと自体の厳しさ、危うさってすごくあったような気がして、言葉にしてみたくなった。


すごい瞑想者と共依存者


私はとあるコミュニティで、「すごい瞑想者」を目指していた。(言葉にするだけで、顔から火がでそうなほど恥ずかしいけど。)色々教わっていた人の、先生という方が、それこそすごい瞑想者だと聞き、その方やさらにその先生という方を参考にしながら、修練していた。

簡単にいうと、人のエネルギーの中にある偏りを還元していくようなもの。そんなことが出来るのは、相当な状態にないと出来ないわけで。私は分不相応な状態のままそれをやろうとしたから、心身を壊していった。


心身を壊した時に触れたのが、かなり異端で面白い精神科医の方の本だったのだけど、共依存者(他人に愛されようと、時に病や何かしらの依存症にまでなる)が、自分のために生きていく流れやヒントが書かれた本だった。

そこに書かれていたのは、自分の姿そのものだった。目を背けたくなるような、でも等身大の自分がそこに書かれていた。

恥ずかしさ、悲しさ、居た堪れない気持ちが溢れた。すごい瞑想者ってなんだよ。私は、そんな瞑想者になる以前に、人として自立して生きてさえいられていないじゃないか。って。

だからそこからは、その「依存」の種になっている「耐え難い寂しさ」に触れ続けていった。そこに触れるのは本当に苦しかったけど、それでも、触れ続けていくほどに自分の中のいのちの泉のようなものに触れていく感覚がいつしか感じられるようになっていった。

いつでも、等身大の自分を置いて、進める道なんてないのだ。


低次元だと思っている感情のその先


私はずっと、例えば「エゴ」だとか「低次元の自己」とか呼ばれるものを、ジャッジメントしてきたと思う。「すべてが愛だ」「あるがまま」なんていう言葉がどれほど薄っぺらいものだったか。

「すべてが愛」なんて言いながら、誰かが悩んでいたら"必要以上に"助けようと思ったり、自分が何か調子を崩すと「戻さないと、治らないと」と思っていた。結局は人間目線の居心地のよいものだけを「愛」と呼んでいたのだと思う。

そんな風に思うようになったのは、ここ2ヶ月の流れの中で友人から「低次元だと思っている感情を、ジャッジメントしないでいられるようになった時に、本当に悟りというものを知る」というようなことを聞いてから。

結構衝撃的だった。ジャッジメントしないつもり、受容しているつもりで、やっぱり抑圧していたことが、どかんと腑に落ちたからだ。

「誰かに対して必要以上にアドバイスや励ましを人にしてしまうのは、無意識にその人の状態を「悪い状態」だ「助けないと」と認識していてるから、救う人救われる人という構図をつくってしまう。それは本当の意味で存在への信頼が持てていないから。」という話も衝撃を受けた。

自分の内にある「ジャッジメント」に意識的でないと、それは一見「人を助けている」ようで「自分を助けているだけ」なのだと。

そんなことに衝撃を受け、感動したからこそ、今私の中に「あるがまま」とか「すべては愛」という言葉のスケールの更新が今起きていて、自分の中の「ジャッジメント」を、日々観察し続けている。


自分で自分は変えられない?


もうひとつ、ここ最近関わっている友人に共通していることは、「この世界を支えているものに対する畏敬の念」だ。

「人が理解しきれないものがある」という謙虚さが根底にあるからこそ、「ジャッジメント」が限りなく少なかったり、そこに気づけるのではと思う。

1人の人からは「消化すら自分でやっていないのに、自分に何かができると思いすぎるのって傲慢だよね。笑」と。

「自分で自分を変えられる(コントロールできる)んだ」と思うこと自体、そういう視点から見ると、傲慢なのかもしれない。

そう思うと、感情も、細胞も、もっともっと自分を超えたものに支えられていて、天気のように、天体の動きのように、手を加えられるものではなく、その瞬間瞬間の景色を観察し、感じることくらいが人にできることなんじゃないかと思えてくる。

聖人風に、受容するとかそういうことじゃなくて。人として体験する連続、そしてそれを面白がっていく連続でいいのかなって。


特別感


「変わりたい!」と同じくらい自分を支配していたのは、「特別な何かになりたい」だったように思う。「すごい瞑想者」というさっきの言葉からしてもそうだよね。笑

かと言ってもちろん今「特別な人でいたい」という思いがありません、なんていうことでもない。それがあるんだなと認識して、観察している。それだけでも少し違う。

スピリチュアルなコミュニティって色々あるけれど、「自分に価値が見出せない、変わらないといけない、このままじゃいけない、自分のことがわからない。」

そんな風に思っている時に「あなたは特別だよ」「楽になれるよ」「こうすることで変われるよ」ってすごい希望なんだけど、それ自体もすごく危険性を孕んでいるなと思う。

結局どこかで、平凡でいることを恐れている人にとっては、重宝がられたり、あなたってすごいって言われることって、依存と紙一重。

一時的には、数年は、それでいいかもしれないけど、今度はそこに居場所を見出しすぎて、依存していってしまう。そこに居るから、私は特別なんだって思い始めたり、そこを離れたら自分はやばい(この場所にしか真実は無い)って思い始めたら、自分の中から、真の生命力が失われているということ。

「ここのメソッドもいいけど、他にも素晴らしいメソッドはたくさんあるよ」とか、「特定の人が特別なんじゃなく、すべての人が特別なんだよ」ってなかなか真に言える人はいないし

「ここだけが特別」と思わせないと、ある意味人も離れていってしまうしね。でもそれって本質的じゃない。でも、自信が無いと「ここだけ」沼にハマってしまう。

自分の価値を見出したくて、やり始めたことに、また価値を手渡してしまう。そういうことって私はよくよく経験してきた。自分の在り方がそうだったからね。

だから、今思うのは「変わらないくてもいい」「変われない」ってこと。自己価値も、自己肯定感も、ずーっと一定なんてありえない。上がったり下がったり、なぜか数ヶ月ずっと穏やかだったり、天気みたいなもの。

だから、自己価値も上げなくていい、肯定感も上げなくていい、その時々で自分が好きでも大嫌いでもいい、この世界は美しいと思えたり、こんな世界消えてしまえ!って思ってもいい。全部が愛だ〜なんて恍惚な状態で一生送れる訳がないと笑ったらいい。

きっとどんな人間くさいところも全部、魂はジャッジなく微笑んで見てるはずだから。

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