③貴族政治と国風文化3-3
3.荘園と武士
荘園と公領
貴族や寺社の支配する荘園が増大していったものの、一国の中で国司の支配下にある公領(国衙領)も、まだ多くの部分を占めていた。しかし、豪族や開発領主の力が伸びてくると、国司は国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。これに応じて国衙には田所・税所などの行政機構が整備されて、国司が派遣する目代の下で在庁官人が実務を取るようになった。
こうして郡司・郷司や在庁官人らは、公領をあたかも彼らの共同の領地のように管理したり、荘園領主に寄進したりしたため、かつての律令制度の下で国・郡・里の上下の区分で構成されていた一国の編成は、荘・郡・郷などと呼ばれる荘園と公領で構成される体制に移行した。
完成された荘園や公領では、耕地の大部分は名田とされ、田堵などの有力な農民に割り当てられ、彼らは名田の請負人の立場から権利を強めてゆき、名主と呼ばれた。名主は、名田の一部を下人などの隷属農民に、また他の一部を作人と呼ばれる小農民などに耕作させながら、年貢・公事・夫役など❶を公領に納め、農民の中心となった。
地方の反乱と武士の成長
10世紀に地方政治が大きく変質していく中で、各地に成長した豪族や有力農民は、勢力を拡大するために武装し、弓矢を持ち、馬に乗って戦う武士❷となった。
兵と呼ばれた彼は、兵の家を形成し、家子などの一族や郎党(郎等・郎従)などの従者を率いて、互いに闘争を繰り返し、時には国司に反抗した。
やがてこれらの武士たちは、地方の豪族を中心に連合体を作った。特に辺境の地方では、旧来の大豪族や任期終了後も、そのまま任地に土着した国司の子孫などが多く、彼らを中心に大きな武士団が成長し始めた。中でも、関東地方は、良馬を産し、武士の成長が著しかった。
関東の地には、早くから根を下ろした桓武平氏の内、平将門は下総を根拠地にして、935(承平5)年に一族と私闘を繰り返し、更に国司に反抗していた豪族と手を結び、939(天慶2)年に反乱を起こした(平将門の乱)。
平将門は、常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、関東の大半を征服して新皇と称するに至ったが、同じ関東の武士の平貞盛・藤原秀郷らによって討たれた。
同じ頃、元伊代の国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし(藤原純友の乱)、伊代の国府や太宰府を攻め落として、朝廷に大きな衝撃を与えた。純友は清和源氏の祖である源経基らによって討たれ、東西の反乱は治ったが、この乱を通じて朝廷の軍事力の低下が明らかになり、地方武士の組織は一層強化された❸。
この二つの乱は、時の年号から承平・天慶の乱とも呼ぶ。
こうして地方武士の実力を知った朝廷や貴族たちは、彼らを侍として奉公させ、滝口の武士のように宮中の警備に用いたり、貴族の身辺や都の市中警備に当たらせたりした。また、地方武士は国の兵として国衙に組織するとともに、追捕使や押領使❹に任命して、治安維持を分担させることも盛んになった。
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