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第1章 古代の世界❹

ローマ帝国の衰退

3世紀末のディオクレティアヌス帝<位 284~305)は、国土を四分し、自らの神性を主張しながら、巨大な軍隊と官僚機構をもつオリエント的な専制支配によって帝国を再建しようとした。
ついでコンスタンティヌス帝<位 306~337>は再び帝国を統一し、都を東方のコンスタンティノープル(ビザンティウム)に移した。

コンスタンティノープル
東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。

帝は専制君主政を確立し、身分や職業の世襲化をはかった。このときまでに、ギリシア・ローマ特有の市民的自由は消滅していた。
専制君主政をもってしても、帝国の解体を防ぐことはできず、395年、テオドシウス帝 <位379 〜 395> はその死に際して国土を東西に二分した。このうち東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395~1453年)はその後、約1000年続いたが、西ローマ帝国(395〜476 年)はゲルマン民族の大移動のさなか、476年に滅んだ。

ローマの古典文化

ローマ人は土木・建築、法律、暦といった実用的文化の領域で独自の才能を示した。文学・哲学・美術の諸分野ではギリシア文化の影響が強く、独創性を発揮したとはいえないが、やはり古典文化の一方の担い手として、のちのヨーロッパ文化の形成に大きな役割をはたしている。
ローマ人の最大の文化的遺産はローマ法である。
前5世紀半の十二表法以来、ローマ法は国家の発展にともなって整備され、2世紀から3世紀初めにかけて法学の隆盛をみたのち、6世紀、東ローマ皇帝ユスティニアヌス <位 527~565>の命令でつくられた『ローマ法大全』に集大成された。建築や農業についての著作からも、ローマ人の実用的学間への関心がうかがわれる。共和政末期から帝政初期にかけては、また、文学・哲学に加え弁論・歴史・伝記・地誌といった分野でも多くの古典が書かれた。政治家で弁論家でもあるキケロ、『ゲルマニア』で知られるタキトゥス、伝記『対比列伝』(『英雄伝』)の作者プルタルコスなどが登場し、彼らの作品はいずれもこの時代を知るための貴重な史料である。

キリスト教の成立

「ローマの平和」の影には、被征服民族の犠牲と不満とが隠されていた。彼らの不満は、時としてローマやそれと結ぶ服属民の支配者たちに対する抵抗運動となって表れた。のちにキリスト教として発展するイエス<前 7頃/前 4頃~後30頃>の教えは、パレスチナユダヤ人たちのこうした苦難と抵抗のなかでうまれた。イエスユダヤ教の形式化と堕落とを厳しく批判し、人の身分や貧富・善悪の区別を超えて及ぶ神の愛と、その神を信ずるものの救いとを説いた。一部の民衆はイエスこそ民族の苦難を救うメシア(救世主)だとしてしたがったが、ユダヤ教の指導者たちはイエスを捕らえて裁き、ローマ人の総督に彼を処刑するよう求めて、その願いを果たした。
イエスの死後、彼をキリスト(メシアのギリシア語訳)としてじる教えは、弟子のペテロ小アジア出身の使徒パウロらの布教活動でますます広がり、やがてローマ帝国の内部に深く根をおろすにいたった。帝国は国家の祭儀を乱すものとしてキリスト教徒に対してたびたび迫害を加えたが、彼らの勢いを抑えることができなかった。やがて帝国はキリスト教を国家祭儀の中にとりいれる方針をとり、313年コンスタンティヌス帝ミラノ勅令を発してこれを公認した。彼はさらに教義論争の解決にも乗り出し、325年のニケーア公会議アタナシウス派の考えを正統とした。アタナシウス派の考えはのちに三位一体説(父なる神,子なる神,聖霊の三者を同一とする説)として確立した。そして4世紀末、テオドシウス帝は正統のキリスト教国教として他の宗教を禁じたので、ここにキリスト教はヨーロッパ世界の統一的宗教としての基礎をあたえられることになった。

教父アウグスティヌス教会

教義確立に努め、キリスト教発展に貢献した人物を「教父」という。アウグスティヌス(354 〜 430)はローマ帝政末期に登場した最大の教父であり、西方教会を神学的に充実・発展させた古代最大のキリスト教思想家であった。
彼の代表的著作として知られているのが『神国論(神の国)』である。この本は全22巻、13年以上の年月をかけて執筆されたもので、「神の国」と「地の国」が対立する場として現実の世界を位置づけ、神の導きによって歴史は進むとするキリスト教的歴史観にもとづいてローマ帝国の衰退理由を論じている。その一方で数多くの古代の政治家、文学者、哲学者、様々な思想、宗教慣習にも言及していることから、一種の古代の「百科事典」的性格ももっている。
彼が生きた時代は、政治的混乱と社会的退廃が蔓延していた。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国の首都ローマがアラリック率いる西ゴートに掠奪され(410年)、ローマ帝国の衰退は誰の目にも明らかとなった。そして 429年、ガイセリック率いるヴァンダル族がアフリカに渡り、いたるところで掠奪と暴行を繰り返した。
アウグスティヌスは北アフリカのヒッポ司教として「司教はいかなるときにも住民を見捨てたり、教会を放置すべきではありません。困難と危険が切迫している折に、司教たる者は人びとのために苦悩を負い,生命を賭けて働くべきです。」(手紙228) とし、ヴァンダルが町を包囲する中(430年)住民を励まし続けた。しかし彼は熱病にかかり、76歳の生涯を閉じた。その後、ヴァンダル族ヒッポになだれこみ、町を占拠,破壊した。ヴァンダル族はその後、カルタゴも占領し,455 年にはローマを攻略した。文化財などの破壊行為のことを英語でヴァンダリズムというが、これはヴァンダル族の行為に起源をもっている。


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