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③貴族政治と国風文化3-2

3.荘園と武士

荘園の発達

8〜9世紀に生まれた初期荘園❶の多くは、衰退していった。

❶この頃の荘園は、一般に貴族や大寺院が自ら開墾した土地や買収した墾田からなり、付近の農民を使って経営されたので、後の寄進地系荘園と対比して墾田地系荘園と呼ばれる事もある。

しかし、10世紀以降になると、次第に貴族や大寺院の権威を背景として中央政府から租税の免除(不愉)を承認してもらう荘園が増加し、地方の支配が国司に委ねられるようになってからは、国司によって不愉が認められる荘園も生まれた❷。

❷中央政府から太政官符民部省符によってそぜの免除を認められた荘園を官省苻荘と呼び、国司によって免除を受けた荘園を国免荘と呼んだ。

10世紀後半以降になると、大名田堵が各地で勢力を強めて盛んに開発を行い、11世紀には開発領主と呼ばれて一定の地域を支配するまでに成長するものが多くなった。彼らは在庁官人となって国衙の行政に進出するとともに、他方で国司から圧力が加えられると所領を中央の権力者(権門勢家)に寄進し、権力者を領主と仰ぐ荘園とした。
寄進を受けた荘園領主は領家と呼ばれ、この荘園が更に上級の大貴族や皇室の有力者に重ねて寄進された時、上級の領主は本家と呼ばれた。その開発領主は、下司などの荘官となり、所領の私的支配を今までよりも、更に一歩押し進めることになった。こうした荘園は寄進地系荘園と呼ばれ、11世紀半ばには各地に広まった❸。

❸領家・本家のうち、実質的な支配権を持つものを本所と言った。また、畿内近国では、有力寺社が田堵の寄進を受けて成立させた小さな規模の寺社領荘園がたくさん生まれた。

荘園の絵図
神護寺領紀伊国桛田荘の図で、荘園落村の実情をよく知ることができる。荘園の東北端に八幡宮があり、民家は山麗や紀伊川のへりの大道に沿っている。四隅と紀伊川の南の点は荘の領域の境目を示す。この荘園は9世紀初めに開発され、12世紀末に神護寺に寄進された。

やがて、荘園内での開発の進展に伴って、不輸の範囲や対象が広がり、開発領主と国司の対立が激しくなると荘園領主の権威を利用して、検田使❺など国司の使者の立ち入りも認めない不入の特権を得る荘園も多くなっていった。

❺国司がそう税などの徴収のため、国内の耕地を調査するために派遣した役人。

不輸・不入の制度の拡大によって、荘園はようやく国家から離れ、土地や人民の私的な支配が始まったが、寄進地系荘園の拡大はこの傾向を一層強めた。こうした情勢に直面し、国司は荘園を整理しようとして荘園領主との対立を深めるようになった❻。

❻逆に、任期終了近くになると、荘園の拡大を許可する事で利権を得る国司もいた。

荘園の寄進
① 鹿子木荘(東寺百合文書)
一、この荘園は開発領主の沙弥寿妙の子孫が代々受け継いできたものである。
一、寿妙の子孫高方の時、権威を借りるために藤原実政卿を領家として年貢の内400石を上納することとし、高方は荘園の現地を完全に支配する預所職となった。
一、実政の子孫の願西は力がなく、国衙の不当な干渉を防ぐことが出来なかった。そこで願西は領家の得分のうちの200石を上納するという条件で高陽院内親王に寄進した。内親王が亡くなった後は、菩薩を弔うために勝功徳院を建立され、その200石を寄進された。その後、内親王の母である美福門院の計らいで仁和寺に寄進された。これが荘園の本家の始まりである。

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