③貴族社会と国風文化4-3
4.院政と平氏の台頭
院政期の社会
白河・鳥羽・後白河の3上皇は仏教を厚く信仰し、出家して法皇となり、仏法による支配を求めて六勝寺❶など多くの大寺院や堂塔・仏像を造り、しばしば紀伊の熊野詣でや高野詣を繰り返し、盛大な法会を行った。また、京都の郊外の白河や鳥羽に離宮を建造した。
これらこ費用を調達するために売位・売官の風が、ますます盛んになり、政治の乱れは激しくなった。
上皇の周りには、富裕な受領や后妃・乳母の一族など、院近臣と呼ばれる一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな国の国司などの官職に任命された。このころには、知行国の制度❷や院自身が国の収益を握る院分国の制度が広まって、公領はあたかも院や知行国主や国司の私領の様になり、院政を支える基盤となった。
院政のもう一つの基盤は大量の荘園である。特に鳥羽上皇には、院や女院に荘園の寄進が集中したばかりでなく❸、有力貴族や大寺院への荘園の寄進が非常に増加した。また、不輸・不入の権を持つ荘園も、さらに一般化し、不入の権の内容も警察権の排除にまで拡大されて、荘園の独立性は一層強まった。
また、大寺院は、多くの荘園を所有し、下級の僧侶を僧兵として組織し、国司と争ったり、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴を行い、主張を通そうとした❹。
かつて鎮護国家を唱えていた大寺院のこうした高行動は、権力者が各種の私的な勢力に分裂し、法によらずに実力で争うと言う院政期の社会の特色をよく表している。その際、神仏の威を恐れ、無気力となっていた貴族は、大寺院の圧力に抗することができず、武士を用いて警護や鎮圧に当たらせたため、武士の進出を招くことになった。